今から5年前、息子が結婚をし、そして夫が仕事人生に終止符を打ちました。さあ、我が家のホームページを通じて知り合った友達に会いたい、と思って居たことが実現に移せます。

どこへ行くか、どんな旅行をするか、二人で考えました。まずは、友人の多いアメリカへ、そして、一つの場所に1週間位は滞在して、現地の方と同じような生活をしたい。その様子をホームページにして現地からアップしたいと思いました。インターネットを使って旅行の準備を始めました。検索で目的地、B&B、ミュージカル、鉄道、レンタカーなどいろんな情報を集めました。最終の打ち合わせはニューヨークの友達とネットミーテイングを使いました。電話のように声を交わしながら、ホワイトボードに書き込みながら、本当にインターネットは凄いなと思いながら準備をしました。また、アメリカからHPをアップしたりメールを出すために持って行くノートパソコンを使っての練習やテストも繰り返ししました。ローミング(メール転送サービス)のテストはとても大事でした。

ノートパソコン、デジタルカメラ、通常のカメラ、パソコン周辺機器に充電器それにコアラから貸し出されたデジタルビデオと、パソコン関係の荷物だけでもかなりの分量になりました。
留守の間の家は、近くの若いパソコン仲間が見て下さるというので私達は安心して2ヶ月のアメリカ旅行に出発しました。

帰ってきた時旅行記を書いたら?と言ってくださる方もありましたが、私達はインターネット上の、サイバーブックにしたいと思って、現地からアップしたHPの前後に旅行の準備、帰ってきての感想、スケッチなどを付け加えてこのようなサイバーブック「アメリカ旅行の記録」を作りました。

それを少し見ていただきながらご一緒にアメリカ旅行を振り返りたいと思います。

我家のホームページは、由布岳・鶴見岳の絵の下には最近の出来事を載せています。その下に、保存版を置いています。右には、旅行の記録のページをおいています。一番最初が、今、お話をしていますサイバーブック・アメリカ2ヶ月旅行の記録です。勿論これも英語版も作りました。

地図の地名をクリックしていくと、その町の旅行中の記録が出てきます。始めに準備のページです。

フレームにいろいろ準備した項目を書いていますが、それについて、夫と私の思いをそれぞれ色分けして書いています。例えば「はじめに」という所では、二人の旅行に対する思いを書いています。

そして、地図に戻りますが、最初の訪問地はニューヨークです。NYのアパートの窓から見える景色を書きましたが、ちょっと雑で恥かしいです。

始めに、外国から来たメール第一号だったNYの日本人の一家に迎えて頂きました。奥様、二人の息子さんたちに歓待して頂き、今も家族ぐるみのお付き合いをしています。

私たちは、観光地をただ巡る旅行ではなく、行く先々の町で、住んでいる人と同じような感覚で過ごしたいということを思っていましたので、キッチンのついている部屋で、スーパーで買物してきた材料で料理をして食べることも楽しみの一つ。そんなことをお話して紹介してもらったアパートで1週間のニューヨーク生活も満喫しました。目の前がセントラルパーク、すぐ側にはリンカーンセンターがあるという素晴らしいロケーションのアパートでした。食事はいつもテラスでNYの高層ビルやセントラルパークの緑をみながら食べました。このことはきっとこれからも一生忘れないと思います。


またNYではある青年にあうのがとても楽しみでした。ネチズンという言葉を創設したマイケル・ハウベンという青年です。ネチズンというのは、ネットワークシチズンのことですが、ネットの中で、自分の持っている知識を広く提供したり、インターネットがまだうまく活用できない人をサポートしたり、ネットの活用を前向きに考えられる人のことを彼がコロンビア大学の学生だった時に、ネチズンと呼びました。大分での別府湾会議にハウベンを基調講演の一人として招聘することになりました。
そのことを知った私達は、すぐにハウベンにどうぞ大分に来てください、とメールを出し、大分に来た彼のお世話をしました。そんな縁で、彼のご両親とも親しくなりグリニッチビレッジにある彼のアパートに招待されたり、昼食、夕食を食べてもまだ議論がつきないと、また翌日も会うという楽しい時間を一杯過ごしました。

しかし、2年前、彼が亡くなったと聞きまして、本当に残念でたまりません。追悼のページを作りたいので何か、とご両親から頼まれて作ったのがこのページです。彼にまつわる思い出をまとめました。そして大分に来た時お土産に持って来てくれたかわいいNYのお料理の本。別府湾会議の記念写真、西日本新聞の取材を受ける彼のお手伝いをしたり、別府の居酒屋で楽しんだりした写真を載せました。こんな悲しい思い出にもつながるニューヨークでしたが、今も、ご両親からはメールが参ります。

次の滞在地ワシントンではお友達が2週間もアパートを貸して下さったので思う存分、ワシントン生活を楽しみました。その後、以前に住んでいたシカゴに1週間滞在し、懐かしい場所に行くことが出来ました。


シカゴの次の訪問地は、我が家に4回も来て、日本人を奥さんにしてしまった青年の住むアリゾナです。昼間は、もう死ぬかと思う暑さにびっくり、しかし、グランドキャニオンへのドライブでは、雪の山もまじかに見るし、また真夜中の砂漠で見た星空の見事さは忘れることが出来ません。アメリカの自然の奥深さに驚く旅でした。
次の訪問地は、ゆふいん音楽祭のページを見て、是非、行きたいなーなんていうメールが来たかと思うと、本当に音楽祭にやってきたロスアンジェルスに住むジムさんの家です。宗教音楽を歌う合唱団に入っているジムさんは、カリホルニア大学の教授をリタイアし、オレンジカウンティの米日協会の会長をしている親日家でした。カリホルニアの青い空によく似合う、オレンジ色の瓦屋根の大学の官舎に住んでいましたがなんと私達に用意してくれた部屋は、和室でした。

最後の訪問地はカリホルニア州サンノゼです、IT関連の会社を経営しているお友達の所です、所要で行く大分を検索で調べていたら、我が家のHPが見つかり、メールのやり取りが始まりました。大分で迎えていろいろお世話をしました。その当時は、IT産業の華が開いている真っ最中でした。ここでの楽しい思い出はシリコンバレーの会社巡りとスタンフォード大学の見学でした。

リンゴのマークのアップルコンピューターの青いガラス張りのビル、公園のような前庭を持ったインテルの会社、検索で有名なヤフーはまだ小さなバラックのような事務所、ガタピシと階段を上がった所が受付でした。

丁度、コアラはその頃、事務局の中にスタジオを作り、大分の民放ラジオの番組を毎週夜、受け持つかたわら、ラジオだけでは大分近辺の人しか聞けなくてつまらないので、同時にインターネット放送も始めていました。私もそのレポーターをしていましたので、私たちの旅行もそのレポートを兼ねたものになり事務局からデジタルビデオカメラが渡されていました。私達のアメリカ旅行は、ビデオをまわし、デジカメで写真をとり、ノートパソコンでホームページを作ってアップする。ビデオテープは、時々、航空便でコアラに送り、インターネット放送に使ってもらう。そして、買出し、料理作り、掃除、洗濯と大分の家にいるより何だか忙しかったですよ。でも、どこの家も、アパートも私たちのために、インターネット用の回線を準備して私達のそんな旅行を応援をして下さっていました。

次の年は、お菓子のレシピを送ってくれた青年に会うために「オーストラリア35日の旅」をしました。シドニー、メルボルン、アデレードなどで、4人のメール友達に会いました。ペニーさんの家では、彼が作ったマフインやケーキでもてなしてくれました。また念願のコアラを抱っこすることも出来ました。


また、一昨年は、ワシントンをベースにしてあの「極北の友達クラウス」さんに会うためにドイツへ渡るという計画を立てました。その出発の2週間前にアメリカ同時多発テロが勃発しました。本当にびっくりしました、そして旅行はどうしたものかと思いました。すると、アメリカの友人から、「テロに屈しないということは、日常の生活を捨てないことです。是非、予定通りにアメリカに来て今の様子を見て下さい」というメールがきましたので、思い切って出掛けました。ワシントンの空港は閉鎖されていましたので、少し遠くの空港からワシントンDCへ入りました。空港はもちろん、あらゆる建物への出入りが厳しくチェックされています。

ワシントンダラス空港からドイツのフランクフルトに渡る時、私の手荷物が反応しました。たちまち、ライフルを構えた兵士に取り囲まれて、手荷物検査を受けました。何とも言えない恐怖、化粧ポーチに入れた爪切りでした。早くそこを離れたくて、係官に「プレゼント」と言って爪切りを渡してしまいました。

フランクフルトからライン川に沿って、極北の友人クラウスさんの住む町まで列車の旅、そこからは彼の車であちこちドライブに連れて行ってもらいました。ドイツの北の端まで行き、バルト海やエルベ川を見てきました。ベルリンではまだ少し残してあるベルリンの壁を見たり、80%を破壊されたというベルリンの街をドイツの首都として再建している様子などを見ました。インターネットに関しては、友人の家の電話回線が遅くて、これはまだ大変だな、と思いましたのでベルリンでインターネットカフェに入り、メールチェックをしました。日本語は読むことが出来ましたが、書くことは出来ず、息子達には英語で無事を伝えるメールを書きました。私が一番行きたかったポツダム宣言の出されたというお城にも連れて行ってもらい、スターリンやチャーチル、ルーズベルトなどが居た部屋などを見て、感慨深いものがありました。ドイツ滞在中はホームページは作りましたが、回線が遅いのでアップするのは諦めて、ワシントンに戻ってから、まとめてアップしました。ドイツに行くと言ったきり音沙汰無くて心配をしていたけど元気で本当に良かったねと早速友人からメールが来て、とてもうれしかったです。


さて、いよいよワシントンからNYのテロの現場に行きました。以前我が家にホームスティをしたことのある韓国の学生がその時はコロンビア大学に留学していましたので、彼女と一緒に行きました。テロの勃発から1ヵ月半のことです。テロの現場はテレビの画面ではわからない匂いと異様な静寂が包み込んでいて、その重苦しい雰囲気は今も忘れることは出来ません。
公園の中をかけるリスの可愛い姿と、銃を構える兵士と、どちらが現実なのか、どちらも現実です。でも私たちが望むのは、かわいいリスが遊び、それを見て微笑む人たちです。その時アメリカで感じた、張り詰めた緊張が今も続いている世界情勢をとても悲しいと思います。続く

  シニアネット諫早NPO法人設立記念講演会の記録原稿