シニアネット諫早 NPO法人設立記念講演会 2003.2.22 永野美恵子
目的 | シニアネット諫早のNPO法人設立を契機に、生涯学習および地域活性化の一環としてのシニアネット活動の楽しさと意義を、市民の皆様にご理解いただき、活動への参加、支援を呼びかけるため。 |
日時 | 平成15年2月22日(土)14:30~16:30 |
場所 | 諫早市立図書館2階 視聴覚ホール |
「シニア主婦のインターネット満喫人生--この10年」
ただ今ご紹介頂きました大分市から参りました永野美恵子です。
この度は、シニアネット諫早 NPO法人設立本当におめでとうございます。その記念の会にお招きいただきまして、大変光栄に思っています。
今日はまた大きなテーマを掲げて頂きまして、何だかとても恥かしいのですが、私たちが、毎日、パソコン、インターネットを活用しながら暮らしている様子をお話させて頂こうと思っています。どうぞよろしくお願い致します。
私は、昨年暮に還暦を迎えました、その時に、大事にしたいと思いましたことは、「心と体の健康と充実」でした。幸い、今のところ、健康に恵まれています私たち夫婦は、夫々に、力を出せるところで思いっきり力を出して用いられたいと願いました。そして新しい2003年を我家のホームページを見て是非、ホームスティしたいと言ってくれた上海からの留学生と一緒に迎えました。日本の普通の家庭の年の暮れやお正月を体験したいと言ってくれた学生さんは、日本で大学を終えたら早く上海へ帰って思いっきり働きたいと目を輝かせていました。今までにも、色々な国の若い人が我家に泊まって行きました、そういう人たちが世界の各地で活躍をする時、地球はもっともっと小さく感じられるに違いありません。今は彼や彼女たちが将来どんな活躍をしてくれるかとても楽しみな私達です。
私は、結婚後、夫の仕事の関係で、あちこち転勤をしました。大分市で夫が定年を迎え、そのまま大分に住んでいますが、結婚した時から私は専業主婦です。専業主婦ならそれに徹しようと思いまして、羽仁もと子創立の全国友の会という主婦の団体に入りまして友達と一緒にいろいろ学んできました。そこの会員生活も36年になります。会に入りますと、会報に原稿を書いたり、またレポートを書いたり、とにかく文字を書くことが一杯あります。それで、ワープロなるものがとても便利と聞きまして、一大決心をしてワープロを買いましたのが、二度目の転勤で大分にやってきた1991年、今から12年前のことです。
この一台のワープロから、私たちの世界が大きく動くことになりました。夫の上司の方から、ワープロでもパソコン通信が出来るんですよ、やりませんか。と誘われたのです。ただ、文字を書く道具と思っていたものが、コミュニケーションの道具だと知ったのです。2度目の大分転勤といいましても、13年振りでしたから、知人も少なく、たくさん友達が出来ますよ、と言われた言葉に惹かれて、何だかおもしろそう、と二人で入会したのが、コアラでした。
動物のコアラではありません、でもその動物のコアラをシンボルマークとしているパソコン「コアラ」でした。
ここで少しだけ、コアラの説明をさせて下さい。
1985年昭和60年、尾野徹という人を中心に大分の若手の二代目事業家などが集まって、パソコンで何が出来るか、大分アマチュア・パソコン研究会を作りました。データーベース作りが中心でしたが、おしゃべりの方が面白い、そこで翌年正式に・頭文字をとって名づけたパソコン通信コアラが誕生しました。会員は30人ほどだったそうです。私達夫婦が入会したのは、その5年程後の1991年、1801.1802番というID番号をもらいました。特別名誉会員には大分県の平松知事さんイギリスのジェフリー・ハウ外務大臣などの名前がありました。
ワープロにモデムをさし込んで電話につなぎ、パソコン通信をする、それで今までに知らなかった多くの方々と知り合いになれました。企業人の夫と専業主婦の我が家に今まで接点の無かった方々との出会いがワープロから生まれました。月に一度、顔を会わす例会があり、言葉の世界でのお付き合いだった方々と直接顔を合わす。参加者一人一人が近況報告をした後は、尾野氏がパソコンにまつわる新しい動きなどを話して下さる、その後は、会場を居酒屋に移して一緒に飲み食べしゃべります。合言葉は「ネアカ・ハキハキ前向き」これはもう一気に親しくなります。
若いサラリーマン、学校の先生、社長さん、目の不自由な方、個人商店の店長さん、失業中の方、自称詩人の方、公務員などなど、本当にいろいろな方と知り合いになれて、この方々に助けられて、私達のワープロ人生やがてはパソコン人生が、楽しいものになっていくのです。
その後、コアラとは深く関わりながら今に至っていますが、コアラの方は、ニューコアラとなり、3年前、尾野徹氏を社長とする、株式会社コアラへと発展しました。その時、私は、任意団体ニューコアラ運営委員会の運営委員に任命されました。
私達がコアラに入会しワープロを介して、いろいろ楽しいおしゃべりや、情報交換をしている時、そういうことをもっと社会に普及させるための方法やその効果を学問的に研究するハイパーネットワーク社会研究所の必要が考えられていました。
そして、先進的に活動している方々を国の内外からゲストにお迎えして、ハイパーネットワーク別府湾会議が開かれ、私達も出席しました。そこで私は、ワープロにしろ、パソコンにしろ、何だかとっても難しい、もっと電気洗濯機のようにスイッチ一つで扱えるようなものになるといいな、という話をしました。その会議には、パソコンメーカーの技術開発の方や、大学の研究者などがたくさん参加されていましたが、コアラの代表の尾野氏が「一人ひとりが主人公」という思いを常づね打ち出しておられたので、主婦の私も専門家と同じ所でお話をすることが出来ました。今までに何度もそのような会議に出席し、新しい世界の動きをいち早く知ったり、先端の技術を実際に体験したり、視野を広げることが出来ました。ユビキタスという言葉を聞かれたことがあると思います。私がパソコンが電気洗濯機のように、といいましたことが現実のものとなりつつあることに驚いています。
92年12月にはパソコン通信から、インターネットメールが出来るようになりました。コアラの会員内のメール交換が、国内に、海外にもとひろがって、94年7月にはとうとうWWWサービスが出来るようになりインターネット会員の募集が始まりました。早速、私も申し込みました。多分、日本では大学以外でインターネットが使えるようになった最初の事例だと思います。
さあ、インターネットが出来ます、これはもう絵や写真が見える、という画期的なことです。ワープロでインターネットに繋ぎ大方の皆さんがそうであったように、私もアメリカ大統領のホワイトハウスのHPにつないでみました。しかし、ここが大統領の執務室です、とあっても、写真が見えません、やっぱり写真や絵が見たい、我が家にもパソコンが欲しい!と思いました。
でも、どんなパソコンを買えば良いのでしょうか、私達機械音痴にも使いこなせるものでなくてはいけません。早速、パソコン通信の中で聞きました。「我が家はどんなパソコンを買えば良いでしょう」たくさんの友達がいろいろな意見を書いてくれました。それは3ヶ月以上も続いたでしょうか。さあ、いろいろ言った人は、もう我が家のパソコンのお守り役になってくれるしかありません。
95年3月私達は安心してパソコンを買うことが出来ました。早速、若い方々が入れ替わり立代り来てくれて、我が家のパソコンのお守りをしてくれます。
何かおかしい、とSOSを出すと、夜中でも飛んできてくれます、そういう人のことを「お助け隊」と呼びました。私は、冷たいビールとおつまみを用意して待ちます。何度そんなことが繰り返されたでしょう。そしてそれは今も続いていますが、反対に、私達が友達の家に呼ばれることも出て来ました。今までのご恩返しが少しでも出来ればと思って出かけています。
パソコンが目の前にある、インターネットにも繋がる、早速、ホームページを作りたい、と思いました。パソコンを購入して2ヵ月後、ホームページを発信しました。日本の一般人でHPを持っている人はまだ数える程しか居なかった時代だったそうです。
ホームページを持つについて、夫と編集会議を開きました。まあ、後にも先にもたった一回の編集会議ではありましたが、この時の4つの基本合意を今も大切にしている我が家のホームページです。
・インターネットっていうのは、世界中を結んでいるものだよね。英語も必要だ、英訳は僕がするからね。と夫。
・何を発信したいのか、その内容がとっても大事よね。
・ホームページを作るからには、見てもらいたい、何度も見てもらいたいね、次々と更新していかなくっちゃ。
・ホームページを見たよってメールくれた人へはすぐに返事を書きましょう。
その次考えたことは、何を発信するか、ということでした。
日本の大分に住んでいる主婦が発信するということにどんな意味があるんだろう、私たちが何を大切に暮らしているか、普段着の生活を発信しよう、また日本には四季があり、大分には自然がいっぱいある、私は絵を描くことが好きなのでマウスを使って絵を描いてその自然を知らせよう、編集会議はすぐに終りました。
しかし、問題はホームページ作成です。今のように便利なソフトがある訳でなく、ハイパーテキストを全部手で書きます。雑誌を見たり、本を買ってきたり、二人で首をひねっての作業でした。そうしてようやく出来上がったHPをインターネットに乗せるのも、大変でした。
1995年5月、インターネットにつなげると我が家のホームページが見えるようになりました。大感激でした。
最初のHPを捜してきました。パソコンを買って2ヶ月目とかいていますので、ほぼ最初のホームページだと思います。
トップページから、自己紹介、そして我が家の庭の紹介とリンクをはっています。しかし、置いていますカットは、全て既成のカットの流用です。日本語と英語を並べて書いています。
そのうち、マウスを使ってのいたずら書きから、何とか絵らしきものが描けるようになりgifの画像として保存することが出来ました、うれしくて既成のカットの代わりに、貼りつけてHPを作りました。95/6/28と書いています。パソコンを買って4ヶ月近くになっています。ここに最初に買ったパソコンのことものせています。モデムは14400(14.4Kbps)と書いていますね。ワープロでパソコン通信をしていた時は2440bpsでしたからね。それでも28800は欲しいとここに書いていますね。やっと絵が描けるということで我家の庭の絵をこんな風に描いて遊びました。スライドショーです。ご覧下さい。このスライドショーも流行りましたね。
やがて、夏が近付き、私たち夫婦がボランテイアで関わっている「ゆふいん音楽祭」の準備が本格的に始まりました。「ゆふいん音楽祭」というのはご存知の方も多いと思いますが、温泉で有名な湯布院町で毎年7月の下旬に開かれる音楽祭です。ボランティアで運営されている弦楽器を主体とした音楽祭で今年で29回目、日本では一番歴史のある音楽祭なんですよ。そうだ、このゆふいん音楽祭も世界の人に知ってほしいのでホームページに載せようと思いました。音楽祭の事務局長に許可をもらってホームページにしました。 それ以来7年、今では、「ゆふいん音楽祭」の広報と記録を担う重要なHPとなっています。HPに載せますと、早速、反響がありました。
「弦楽を中心にした音楽祭、すてきですね。こちらでもセントラルパークで時々音楽会がありますよ」わーー、ニューヨークからメールが来た、と興奮しました。外国からもらった最初のメールでした。ニューヨークで30年も仕事をしている日本人の方でした。
それではここで我家のHPを見ていただきましょう。トップページです。
トップページは日本語版、英語版への入り口になっています。
そして我家から見える由布岳、鶴見岳を描いています。四季折々山の様子が変わります。今は、一年中で一番寒い2月、雪を頂いた由布岳を描いています。
真夏はこんな由布岳、鶴見岳の絵を描いていました。ある時、英文のメールがきました。「貴方のHPの緑の山が我が家で見える唯一の緑です。」とノルウエーの北極圏にある町トロモスからのメールでした。びっくりしました。今、その方はドイツに住んでいますが、今も「極北の友人クラウス」と書いてメールがよくきます。
また私はお菓子作りが好きでした。そこでお菓子の作り方を絵にかいてのせました。「私もお菓子つくり大好きです、レシピを送ります。」というメール。メルボルンの男性でした。送ってもらったレシピですぐにケーキを作り、また絵に描いてホームページに載せましたらとても喜んでくれました。マフインです。右の一番上の絵をクリックすると次の作り方にすすみます。はい、マフインの出来上がりです。真中のマフインをクリックして見て下さい。ペニーさんです。これは3年前、彼にあうためにメルボルンに行って、彼の家の台所で写しました。前に置いているのがペニーさんの作ったマフインとケーキです)
こんな具合に、外国からもドンドンメールが来るようになりました。書いてあることは、私にもどうにかわかりますので、日本語で返事を書いて夫に訳してもらって、返事を出す、こうして夫婦で共通の友人がたくさん出来ました。メールを交わすうちにそれはいつしか、お互い会いたいね、という気持ちになっていきました。
そういうこともあってか、1996年、NEW COARAがサントリー地域文化賞を受賞したお祝いのイベントでホームページコンテストが行われ、私は平松知事から"Global Prize"を頂きました。
この頃だと思います、今日こうしてここでお話をさせて頂くきっかけを作って下さったNPO法人シニアネット諫早の常務理事をなさっている金子氏とお会いしたのは。コアラの主催した大分での会議に諫早からわざわざ金子さんが参加されていました。そこには私たちも参加していました。会議が終ったざわめきの中で、どこかで「14400のおばさん」という声がしました。振り向いた私に、これは失礼、とそんなことがきっかけで金子さんとのお話が弾みました。大分のおばさんは雑談の中でも14400bps144なんてことがスラリと出てくるんですね、というようなお話だったと思います。
その時に私が、いつか諫早へ行きますよ、って話したそうです。で、金子さんがそのことを覚えて下さっていて今回、こうしてここに呼んでいただく事が出来ました。あれから、7-8年経つでしょうか。
そんなある日、インターネットから実際に人がやってくる、ということで、NHKの取材を受けることになりました。電子メールの交換をしていたアメリカ青年が我が家にやってくることになったのです。大分駅で会うことになりました、手掛かりは「ひげを生やして黒いカバンを持っています」というだけです。さあ、困りました。夫はどうしても休めない勤務でした。私はまたお助け隊にSOSです。すると高校の先生が、僕が一緒に行きましょう、といってくれてホッとしました。
NHKのテレビカメラやアナウンサーなど4人ほどのクルーと私達は大分駅前で待ちました。そこへ細くて背の高い物静かな男性が近づいてきました。確かにひげが鼻の下にチョコッとあり、黒いカバンを下げています。テレビの皆さんと一緒に車を連ねて大分や別府を案内しました。その後、コアラの友人達が待ってくれている歓迎会場に行き、皆で楽しい時間を過ごして無事にその夜は我が家に泊めることが出来ました。
その後もその青年は私達の本当の息子よりもひんぱんにやってきて、とうとう日本の女性と結婚しました。最初アリゾナで暮し、その後子供も二人出来て今はシカゴで幸せに暮らしています。その彼は、今も私のことを「日本のお母さん」と呼んでくれています。私達は、アリゾナの家も、シカゴの家も訪問し、彼の本当のアメリカのお母さんとも親しくなりました。今も日本に里帰りしてきたら、出来るだけ会うようにしています。
また、コアラの若い方々との交わりの中でも色々な経験をしてきました。そんなことを少しお話してみようと思います。
97年1月、日韓首脳会談が別府で開かれました。日本の橋本首相と韓国のキムヨンサン大統領が別府で会談をするというのです。新聞に号外、速報、というものがあるように、インターネットでも速報を出そう、ということで、別府に発信基地を作りました。首脳会談の行われる別府の町の紹介、大統領の泊まるホテルはこんな所、などとレポートしたり、首脳会談の当日の緊張した町の様子、両首脳の共同声明・記者会見の様子などをHPに作って載せました。日本語版HPが出来るやいなや夫は英訳をする、私は、ロゴなどを作成してHPに作り上げる、尾野局長と数人の若い人たちと一緒に緊張した時間を過ごしたことも楽しい思い出です。
その年の秋には、10日間にわたって大分市工業展が開かれました。コアラもブースをもらい会員有志に企画から製作、運営がまかされました。打ち合わせはまずパソコン通信で相談しながら、週に何度か夜に集まって具体化していきました。東京に住んでいる人たちもパソコン通信に加わり、最後はネットミーティングのホワイトボードを使ってパネル作りなどの打ち合わせをしました。工業展の会場にはホームページ作成コーナー、インターネット体験コーナーなど作り、ライブカメラを設置してインターネットで24時間世界へ流しました。私の海外の友人達が、会場で働いている私をライブカメラで見つけてくれて頑張って、とメールで励ましてくれました。
会場ではたくさんの人に、パソコンを触ってもらっり、インターネットを体験してもらったりと忙しいけれど楽しい時間を過ごしました。
その頃、
コアラ会員だった元校長先生が亡くなられました。その教え子が、先生の残されたパソコン通信の中の書き込みをHPにしたいということで相談を受けお手伝いをしました。その元校長先生は、大学生の時に広島で原子爆弾に被爆されていましたが、そのことは、ずっと胸に秘めて来られていました。亡くなられる数年前、湾岸戦争の頃のことですが、パソコン通信の中に、「忘れたい思い出、嬉しくない嫌な思い出ですが、今年も8月6日が近付きましたので、これが最後と思い書きます」という書き出しで、被爆の体験を語られました。読んだ私たちは本当にショックでした。先生の発言に続けて多くの人が率直な思いを書き連ねました。それは先生の体験を通して平和とは、戦争とは、を考える貴重な記録となりました。遺族の方の了解を得てWeb化し、夫が英訳を担当、私はカバーページの原爆ドームの絵を描きました。すると次々と反響を呼び、内外からたくさんのレスポンスがきました。それをまた翻訳してWebにのせ、このページは今も少しずつ成長しています。インターネットはしていないが、是非、読みたい、という方々の声に応えて、本も作りました。当時は、本がWeb化されることも珍しい時代、HPが本になったとあちこちで話題にもなりました。
私達夫婦がお手伝いをした原子爆弾による被爆の話のページを少しだけ見て下さい。これがカバーページです、このカットをかかせてもらいました。
そんなある時、大学の英語の教科書に載せたい、と韓国からメールがきてびっくりしましたが、原子爆弾や戦争のおろかさを伝え、平和な世界を願う若者が育ってくれるなら、と賛成しました。教科書が出来上がったお祝いに韓国の馬山にある昌信大学を訪れました。教科書を作られた教授の歓待を受け、大学の中にある教会の礼拝で、学長から皆さんに紹介されるという栄誉を頂きました。帰りました私達は、元校長先生の家に報告に行きました。このページがきっかけで戦争と平和について考える若者が少しでも増えることがうれしいです。
その頃97年頃の世の中の動きとしてはインターネットの普及を計りたい、しかし、それにつれてインターネットが悪用される場面も増えてきて「インターネットの明と暗」ということが盛んに取りざたされる時代でもありました。幸い我家はインターネットで困ったという出来事もなく、今まで、日本の国内だけだった交際の範囲が、世界に広がって、毎日が楽しいものになっていました。するとそういう様子を話して欲しいということになり、札幌や、諏訪、また地元の大分大学や芸術文化短期大学などに呼んで頂いてお話をするという機会が度々出てきました。私のような普通の家庭の主婦が、インターネットに発信して、イキイキとした毎日を送ることが出来る、そんなインターネットなら私も始めてみよう、と思って下さる方々、また、私の両親にも勧めてみよう、と思って下さる学生さんが一人でも二人でも増えれば、という気持ちでお話をしてきました。続く
シニアネット諫早NPO法人設立記念講演会の記録