第1回 女性のためのインターネット活用セミナー』にて講演
主婦だって活き活き!もっと私が楽しくなる

目的  「メールやホームページを見るくらいは、日常使っているけど・・・。」という段階から、もう一歩進んだインターネット活用を楽しんでみませんか?
日時 平成16年1月30日(金)
場所 桑名市スター21

 大分コアラ会員 永野美惠子
私とインターネット
                       
おはようございます、大分から参りました永野美惠子です、よろしくお願いたします。
iCAP三重コアラ設立おめでとうございます。今日は、私の話が何か皆さんのご参考になるならうれしいな、と思いましてお話させていただきます。
私の出身地は兵庫県の龍野市です、こちらに参りまして、言葉のニュアンスがやっぱり関西だなととても懐かしくうれしい気持ちになっています。三重県は中学の修学旅行で伊勢志摩に来ました。それ以来だと思います、長いご無沙汰で申し訳ございません。でも、三重と聞きますと、耳がピクッとなります。ネット上では、夫と区別する意味でいつも永野Mieを使っていますのでとても親しみを感じています。

私は結婚して40日で名古屋に夫が転勤、それで初めて私の自立が出来たと言って良いかもしれません。結婚直後から社宅の手直しに毎日大工さんが来ていた関係で、夫が出勤すると毎日、祖母が来てくれて夫の帰宅直前に帰る、という生活をしていました。でも、名古屋では兵庫県から祖母も毎日来る訳には参りません。やっと独り立ちしたと言えるでしょう。
親戚も友達も誰もいない名古屋に来て心細く私は羽仁もと子が創設した主婦の集まりである「友の会」の会員になりました。全国、海外にまで友の会はありまして、家事や子育てのことなどを考えながら学ぶ中で、人間教育をして頂いたと思っています。その時に、覚えたのが「いつからでも新しくなれる」という私の大切にしている言葉です。「朝に道をきいたら夕べを待たずに実行すれば良いのです」と羽仁もと子は続けています。

友の会は今年で75周年を迎える歴史ある団体で母も85歳になりますが、今も会員です。私は今、九州部という1500人ほどの会員がいる中で4人の委員の一人として、今年度は何を大切にしていくか、というようなことを考えたりしています。子育て中の若いお母さんから、70、80歳という高齢の方まで、前向きに暮らしたいという人たちと過ごせる事をとてもうれしく思っています。そして、そういう女性が増えるとどんなに良いか、と思って大分友の会のホームページを作って活動の様子を載せています。夫が英訳をしてくれますので、アメリカでやはり生活改善の活動などしている女性からとても良い組織で良い活動をしていますね、とメールがきたりします。
今の私の生活は、友の会の委員としての忙しい生活が主体ですが、パソコンに向き合う時間というのが結構長い、しかし、それは、特別に言う事では無くて、家にいる時は、食事つくり、掃除、洗濯などの家事と同じように、もうこれは、生活の基盤であって、パソコンを使って、家計簿や日記をつけたり、手紙を書いたり、友の会のことを考えたり、原稿を書いたり、メールで連絡を取り合ったり、また出来事をホームページにするために写真の加工をしたりしている、と言うことです。でも、今そう言える私も、昔は、キーボードなんて怖くて触れないという人間でした。

夫の転勤で大分に住むようになった時、夫の上司からパソコン通信をすすめられたのが、48歳の時でした。「新しい世界が広がるよ、友達もたくさん出来ますよ」と言われた通り、若いサラリーマン、学校の先生、社長さん、目の不自由な方、個人商店の店長さん、失業中の方、自称詩人の方、公務員などなど、本当に年代も職種も色々な友達がたくさん出来ました。そして、その友達は私達のパソコン生活を助けてくれたり、楽しい事に誘ってくれたり、今もとても大切な人たちです。パソコン通信とはいいましても、ワープロで出来るというのです。その頃ようやく世間ではワープロが普及してきていましたので、私にも出来ると良いな、と思い切ってワープロを買い、夫と二人でコアラに入会したのが、1991年1月、今から丁度13年前のことでした。その頃は、アマチュアパソコン研究会という同好会のコアラでした。夫も会社一筋で来た人でしたが、あちこち海外での仕事を経験するうちに、仕事以外の生活を楽しむサラリーマンを数多く見てきて、何か感じるところもあったようで、パソコン通信から広がる新しい仲間との世界に引き込まれていきました。それは私も同様です。

私達がコアラに入会しワープロを介して、いろいろ楽しいおしゃべりや、情報交換をしている時、そういうことをもっと社会に普及させるための方法やその効果を学問的に研究するハイパーネットワーク社会研究所の必要が考えられていました。
そして、先進的に活動している方々を国の内外からゲストにお迎えして、ハイパーネットワーク別府湾会議が開かれ、私達も出席しました。そこで私は、ワープロにしろ、パソコンにしろ、何だかとっても難しい、もっと電気洗濯機のようにスイッチ一つで扱えるようなものになるといいな、という話をしました。その会議には、パソコンメーカーの技術開発の方や、大学の研究者などがたくさん参加されていましたが、コアラの代表の尾野氏が「一人ひとりが主人公」という思いを常づね打ち出しておられたので、主婦の私も専門家と同じ所でお話をすることが出来ました。今までに何度もそのような会議に出席し、新しい世界の動きをいち早く知ったり、先端の技術を実際に体験したり、視野を広げることが出来ました。ユビキタスという言葉を聞かれたことがあると思います。パソコンが電気洗濯機のように、といいましたことが現実のものとなりつつあることに驚いています。

その数年後、iCAP三重コアラを設立された水谷さんがコアラの事務局員として来られました。それ以来の水谷さんとのお付き合いです。やがて私達もインターネットが使えるようになって、我が家もはじめてパソコンを購入、早速、「我が家のホームページ」を作りました。9年前のことです。

初めて3ページからなるホームページをアップ出来た時は本当に感激をしました。HPを作るについては夫と編集会議を開きました。今までにたった1回の編集会議ですが、大分に住む50代の主婦がHPを作るってどういう意味があるんだろう、ということから話し合い、それではその大分の50代の主婦の日常の暮らし、考えていることなどを大分の自然と共に次々と載せていこう、インターネットというからには、世界へ発信、英訳は引き受けた、と夫、そしてもしもメールがきたらすぐに返事を書こう、と二人で決めて作り始めた「我が家のホームページ」、今のような便利なソフトも全くありませんので、一文字一文字、ハイパーテキストを書いていきました。また、デジタルカメラもまだありませんので、マウスで絵を描いて載せましたら、案外それを喜んで下さる方が多くて、メールをたくさん頂きました。我家から見える由布岳、鶴見岳を描いてトップページにしています

私は毎月1日にホームページを変えますが、季節によって変わる由布岳、鶴見岳の絵を書いています。毎月、月末の真夜中には、入れ替えをしますので月末は外泊が出来ません、外国旅行をしていた間も、更新をしていましたので、今までにそれが出来なかったという記憶がないんですが、今回は、ちょっと間に合わないかな、と思っています。でも、2月のホームページはもう準備してきましたので、ちょっと見てください。一年中で一番寒い2月、雪を頂いた由布岳を描いています。

真夏はこんな由布岳、鶴見岳の絵を描いていました。「貴方のHPの緑の山が我が家で見える唯一の緑です。」とノルウエーの北極圏にある町トロモスという所からメールがきました。びっくりしました。今、その方は北ドイツに住んでいますが、今も「北極の友人クラウス」と書いてメールがよくきます。

また私はお菓子作りが好きでした。そこでお菓子の作り方を絵にかいてのせました。今ならデジカメで写しているでしょうが、カメラが無いということも、ある意味楽しいものだな、と今になると思います。「私もお菓子つくり大好きです、レシピを送ります。」というメールがメルボルンの男性から来ました。送ってもらったレシピですぐにケーキを作り、また絵に描いてホームページに載せましたらとても喜んでくれました。マフィンです。右の一番上の絵をクリックすると次の作り方にすすみます。はい、マフィンの出来上がりです。真中のマフィンをクリックして見て下さい。ペニーさんです。これは3年前、彼にあうためにメルボルンに行って、彼の家の台所で写しました。前に置いてあるのがペニーさんの焼いたマフィンとケーキです。

こんな具合に、本当に私の日常を報せる事で、外国からもドンドンメールが来るようになりました。英語のメールも大体の意味はわかりますので、私が日本語で返事を書き、夫に英訳してもらって送り返す、というような繰り返しで、夫も一緒に友人になり、やがて、アメリカの息子と今は言っております青年が何度も大分の我が家に来るというようなこともありました。最初にやってきた時は、大分のNHKが聞きつけて、「メール交換から実際にアメリカ人が大分にやって来る」というので、取材申し込みがあり、私は、テレビカメラを担いだ人々と共に大分駅前に彼を迎えに行き、大分・別府と案内して回る間、テレビクルーが付いてきたってことがあり、今は懐かしい思い出です。
その頃1997年頃の世の中の動きとしてはインターネットの普及を計りたい、しかし、それにつれてインターネットが悪用される場面も増えてきて「インターネットの明と暗」ということがテレビや新聞に盛んに取り上げられていた時代でした。幸い我家はインターネットで困ったという出来事もなく、今まで、日本の国内だけだった交際の範囲が、世界に広がって、毎日が楽しいものになっていました。するとそういう様子を話して欲しいということになり、札幌や、諏訪また地元の大分大学大分芸術文化短期大学などに呼んで頂いてお話をするという機会が度々出てきました。私のような普通の家庭の主婦が、インターネットに発信して、イキイキとした毎日を送ることが出来る、そんなインターネットなら私も始めてみよう、と思って下さる方々、また、親にも勧めてみよう、と思って下さる学生さんが一人でも二人でも増えれば、という気持ちでお話をしてきました。

私達は、ホームページを持った事で、国の内外に友人が出来、また、ホームページを見て是非、ホームスティがしたい、ということで、若い方が何人も我が家に来るようになり、私たちの息子は、東京に一人だけなんですが、今では私達がバーチャルな息子と呼んでいますのがアメリカ、韓国、日本にといます、この青年は上海から日本に来ている青年です。またバーチャルな娘たちは、ドイツに、アメリカに、韓国に、香港にといてうれしい私達です。おじ様、おば様のお友達はあっちこっちにたくさんいまして、いつか会いたいね、とお互い思うようになりました。

今から5年前、夫が定年を迎えたときは、まさしくハッピーリタイアーということで、早速、アメリカへこういう友達を訪ねる旅に出ました。旅に出る時に、目標をたてました。同じ所に1週間位は滞在して生活をする、その様子をホームページにして現地からアップする。という二つです。パソコンやデジカメ、デジタルビデオなどを抱えての旅行となりました。そしてその旅行の様子をサイバーブックとしてインターネット上にまとめています。まず着いたNYでは、我が家のHPを見て最初に外国から来たメールの主である日本人のご一家に迎えて頂きました。インターネットで探したマンハッタンのセントラルパークを見下ろす高級アパートのB&Bに1週間滞在、ミュージカルやバレーを見たり、美術館巡りをしたり、セントラルパークを散歩したりマンハッタンを満喫しました。ワシントンでは友人の友人のアパートを運良く2週間提供して頂けて料理を作ったり、お掃除したり、そういう普通の暮らしがとっても楽しかった。ここでは、私達がインターネットを出来るようにと、新たに電話を引いて下さっていました。シカゴに飛び、ここでは、やはりインターネットで探したアンティックハウスのB&Bで1週間、アメリカの古き良き時代を彷彿させる生活を体験しました。昔夫と二人で住んでいたシカゴ郊外のアパートを訪ねたり、当時中学生だった息子が日本から一人でやってきて家族揃ってクリスマスから年越しを楽しんだウィスコンシンの湖を訪れたりと懐かしい旅になりました。
次はいよいよアメリカの息子の住むアリゾナでした。着くなりすぐにお庭のプールに誘われて、泳ぎながら、彼のお母様と初対面の挨拶をする、という何とも暑いアリゾナならではの歓迎振りでした。彼の運転でグランドキャニオンまでドライブしたり、もう少しでドライアップして死ぬかと思ったショッピングモール巡りをしたり、厳しい乾燥地帯のアメリカ生活を体験、アメリカは広いな、とつくづく思いました。

次は、ロスアンジェルスに住む友人の家です、彼とのきっかけは、私達が、ボランティアで運営委員をしています、ゆふいん音楽祭です。大分の有名な温泉地で湯布院というのをご存知だと思います。そこに今年で30回目を迎える日本で一番歴史の古い音楽祭があります。私達はその音楽祭のお手伝いをもう10年以上しています。私のHPに、私の夏の生活の一部として音楽祭のことを載せていましたが、今では公式ページのようになっていまして、毎年、HPからチケットを購入して下さる方も随分に増えました。そのページを見て、いいな、と何度もメールを寄越し、とうとう音楽祭を聞きに湯布院まで来てくれた人がいました。それが、ロスアンジェルスに住むジムさんでした。カリフォルニア大学の教授だった彼は中世音楽の合唱団の世話をしていて、世界各地へ演奏旅行に行ったりもしていました。そのジムさんの家に1週間お世話になりました。日本からの留学生の世話をしたり、日本人コミュニティのサポートをしたりする大の日本贔屓で私達のために用意してくれた部屋は床の間に掛け軸もかかった立派な和室でびっくりしました。その滞在中に、アメリカ独立記念日があり、家族や近所の人たちと祝う素朴な独立記念日を体験できました。

最後に訪れたのは、丁度IT産業で活気溢れるシリコンバレーのあるサンノゼでした。ある日本人女性と結婚がしたいのだが、とある日、相談のメールが舞い込み、何度かやり取りしているうちにとうとう、大分にまでやってきて face to faceで相談に乗った事をとても恩に感じてくれて、二人して歓待してくれました。IT関連の会社を経営している彼の案内で、シリコンバレーいあるアップルや、インテル、テキサスインスツルメント、などのコンピューターの会社や、スタンフォード大学を見学したり、また別のメール友達に会ったりと楽しい時間を過ごしました。一番の思い出はヤフーの会社を見に行ったことでした。今もインターネットの世界で有名なヤフーの会社がまだ創業まもなくの頃で、ギシギシという外階段を上がった所に受付がある、というバラックみたいな会社でした。あれよあれよと言う間に急成長した会社の為に、あちこちのバラックで仕事をしているという状態の時で、日本で毎日のようにニュースに流れていたシリコンバレーの繁栄振りをこの目でみる事が出来てとても興奮をしたのを思い出します。
こうして2ヶ月のアメリカ旅行が終わりましたが、終わったというより、7月末にゆふいん音楽祭が始まるので、帰らざるを得なかったと言うほうがあたっています。そして、その音楽祭に、ロスアンジェルスでお世話になったジムさんが、また湯布院にやってきて、音楽祭が毎年借りてくれる別荘で私達と一緒に暮らしながら、スタッフとして裏方を務めました。

その次の年は、オーストラリアの友人を訪ねて35日の旅行をしました。シドニー、メルボルン、アデレードで、5人の友人に会い楽しい一時を過ごしました。メルボルンではマフィンの作り方を教えてくれた青年が家に招待してくれて、彼の手作りのマフィンを一緒に食べたのが忘れられません。またドライブに連れて行ってくれた親切な一家が昨年も素敵なクリスマスプレゼントを贈ってきてくれて、うれしい交流が続いています。

今度はあの「北極の友人」を尋ねてドイツに行きたいね、とワシントンを拠点にドイツへ行く旅行を計画してさあまもなく出発、という時におこったのが、「9.11あのアメリカ同時多発テロ」でした。本当にどうしたものかと悩みました。しかし、「テロに屈しないとは普通の生活を続ける事です」とメールを書いてくれたアメリカの友人に応えるべく、予定通り出発しました。しかし、ワシントンに入るのは大変でした、予定していた飛行場が封鎖されていて、遠くの空港から車でのワシントン入りとなりました。空港のセキュリティはどこも厳しく、一度は、私のバッグの中の爪切りが反応して二人の兵士に銃を突きつけられながらバッグの中身を公開するという場面もありました。人間同士が信じられない時は、本当に大変な世界になるのだな、と痛感しましたが、それが未だに続いている世界です。それでも、何とか飛行機は無事にドイツについて、友人が黄色いバラを一輪持って迎えてくれました。友人といっても、夫と同い年のおじ様です。私がドイツで是非、行きたいと伝えていたベルリンとポツダムへの旅行を計画してくれていました。アウトバーンを走っていても、旧東ドイツだった所というのは私にもわかりました。ベルリンに少し残してある壁、修復中のブランデンフルグ門、まだまだあっちこっち瓦礫を残した街を見た時は本当に何ともいえない気持ちでした。また、ポツダムでは、ポツダム宣言の話し合われたという会議室やテーブルを見て、感無量、こうして今の日本があるのだと思いました。
ドイツからアメリカに帰ってきてやっとニューヨークのテロ現場へ行く気持ちになりました。韓国の娘といっているYangさんがNYのコロンビア大学に留学中だったので、誘って一緒に行きました。何ともいえない匂いの立ち込めた瓦礫の現場は、本当に悪夢を見ているようでした。懸命に捜索活動をしている多くの人たち、そしてまた、追悼するために集まった多くの人たちととてもたくさんの人が居るのに、異様な静けさでそれがかえって無気味でした。この旅行中のワシントン郊外でアメリカ軍のアフガニスタン侵攻を知りましたが、テロに対する報復の攻撃、いずれにしても、普通の人たちが被害者になる、この死の連鎖はどうしたら止められるのかと、本当に考えなくてはいけないと思ったアメリカ・ドイツの旅行でした。

少し近い外国の友人のお話をしたいと思います、韓国の息子といっております青年とは、彼が高校生の時からの友達です、日本語の勉強にと、パソコン通信に加わっていましたので、ワープロを介してお話をしていました。私達が始めて韓国へ旅行した時に、会いましょう、という話になってソウルのホテルまで会いに来てくれました。お母さんがこれをおみやげに、と用意してくれました、と人参茶の箱を持って来たのは大学生になったばかりの申青年でした。とてもお行儀の良い青年でした。
その次彼に会ったのは、パソコン通信でとても親しくなった我が家の近くの青年と3人で韓国に行った時でした。その時は、韓国のパソコングループの人たちが20人ほども集まってくれました。英語、日本語、韓国語の飛び交う、賑やかな集まりが出来ました。仁川大学のパソコン研究所を訪問したり、テーブル一杯にキムチなどのごちそうの並んだ接待を受けたり、韓国の息子といってます、申さんは、丁度兵役についている最中でしたが、休暇をもらってきて私達の通訳や、ガイドをしてくれました。

今から3年前の12月、その彼からお父様の還暦のお祝いの家族旅行に大分に行きたいので、とメールがきました。旅行のお金は私が出すのであまり高い所は泊まれないけれど、良いお宿があったら紹介して欲しいと書いてありました。その気持ちがとてもうれしくて、私達もパソコン仲間にも相談したりして、別府の鉄輪温泉のお宿を紹介しました。大分のパソコン仲間を集めて歓迎会をしてそこでお父様の誕生祝をしました。彼は私達にかわいい奥様とご両親を紹介してくれ、別府の温泉や阿蘇山を楽しんで帰りました。
韓国には、もう一人、大切な友人がいます。ゆうさんという方ですが、韓国では重要な政治のポストについていたこともあるという立派な方です。ソウルのシニアグループの集賢殿というグループの代表もしていた方で、大分にも何度も会議の為に来られたり、私達がソウルに行ったときも、先の申君と一緒に歓迎会をしてくれたり、また集賢殿の皆さんとの交流会を計画してくれたりと会えばたくさんお話をして楽しい時間を過ごす事が出来ます。

香港の娘は、クリスマスの香港によんでくれて、あちこち案内してくれたり、昨年は妹さんまで連れて我が家に来てくれたり、私の誕生日には、電話をかけてきて、ハッピーバースディを歌ってくれたり、と女の子のない我が家では、本当に、娘のようで、うれしく思っています。


何時の間にか、私の管理していますホームページは、我が家のHPゆふいん音楽祭のHP,大分友の会のHPと膨らみました。

もう一つ、友人と夫と一緒に開いているHPがあります。「原子爆弾の被爆の記録」というページです。特に8月が近づくと世界各地からメッセージが寄せられてそのメッセージをまた載せる、という風にして今も成長しているページです。この中の英文が韓国の大学の教科書に取り上げられたり、また、オーストラリアの友人が「平和を創る人たち」という著作に取り上げたり、アメリカの国防省の外郭団体から先の大戦の被害者の立場からのメッセージを寄せて欲しいと依頼が来たり、ささやかながら、草の根の平和の祈りとして世界に発信できているのかな、と大切に思っているページです。

インターネットは世界へ向けて発信出来るものです。しかし、それはまた、足元を再発見することでもあると強く思うこの頃です。昨年の秋頃から、私の周りで、NPO立ち上げの話が2件起こりました。一つはいつも大分が元気になるために、と色々な活動を共にしてきた若い仲間で作っている「ブンゴチャンネル」というグループを、本格的な活動団体にするために、NPO化しようと申請をしました。もう一つは、大分の素晴らしい観光資源をIT技術を使って広く報せていく事で、大分の素晴らしさ、楽しさを再発見し、そこに住む人たちのコミュニケーションをITで、という思いでコアラの尾野社長や湯布院の旅館・玉の湯や亀の井別荘の人たち、杵築、竹田など大分県の観光地で中心的な働きをされている人々と一緒に申請している「NPO観光コアラ」です。丁度昨日、申請が受理されたとの報告がありました。帰りましたら早速、忙しくなりそうです。
NPOのどちらもが、私達が大切にしてきたパソコン通信の時代からの友達、ゆふいん音楽祭の仲間たちと一緒、ということがとてもうれしいことです。私はパソコンの向こうにも素敵な人がいる、といつも信じてきました。そして本当にそうだったと今、心から思っています。

インターネットが出来るかな?という時代から、インターネットが生活の基盤、という時代、そして、もう知らないうちにインターネットに係っているんだ、という時代へと今、変化を遂げてきていると感じています。ここになるまでに10年近くがかかりました。しかし、今からパソコンに親しまれる方々は、きっと1-2年でその実感を得られることと思います。人間の暮らしを生き生きと弾ませてくれるIT技術を是非、身近なものにして欲しいと願います。

ありがとうございました。

  * セミナーレポート
  * 東出英子さんのレポート
  * コアラ主催セミナー報告
  * コアラスタッフ 前日の奮闘記