韓国の歴史
その9・新羅の3人の女王
西暦632年に即位した善徳女王は、韓国の歴史上最初の女王でした。 韓国の歴史の中で女王は3人います。この善徳女王、そして真徳女王と真聖女王の3人はすべて新羅の王でした。高句麗や百済には女王はなく、その後の歴史でも女王はいません。
善徳女王が王になる頃、新羅は王朝国家の体系が確立していました。慶州平野を中心にサロ国から発展した新羅は、500年に王位についた第22代の 智証王の時から国家としての体系が整います。智証王の時に新羅と言う国名を決めて、法興王の時に貴族国家体系が完成しました。律令が公布され、貴族の血縁を中心とする「骨品制」にもとづく国の体制を作り、官僚制の整備や国の発展を図りました。
善徳女王の父は新羅第26代の真平王には息子がなく、3人の娘がいました。当時の新羅の王室では、父と母の両方の家系に王系の血縁を持っている貴族を「聖骨」といい、彼らが王になれる最優先権を持っていました。それが骨品制です。聖骨を王になれる最優先条件にしたのは、新羅が征服した周辺の部族国家の支配層を新羅の支配体制に編入し、身分と序列を作るための装置でした。
骨品には聖骨と親の片方だけが王族の血縁である「真骨」、そしてその下は、六頭品から一頭品までの六つの貴族階級がいました。聖骨は後で消滅しますが、階級によって一定の官位や官職につくことができたのです。しかし善徳女王が単に聖骨だったので王になれたのではなく、王にふさわしい実力の持ち主だったことが「三国遺事」や「三国史記」などに記されています。唐の太宗が牡丹の絵や種を送ってきた時、その花を見たこともないはずの女王は優れた判断力で、牡丹の花には香りがないだろうと言ったそうです。
百済や高句麗にも優れた才能を持つ王族の女性がいたと思われます。しかし女性が王位についたのは三国の中で新羅だけだったのです。新羅の女性は相続権も持っていたし、自分の財産についてしっかりした権利を持っていたのでしょう。寺に寄付する社会的な活動も活発だったといわれています。しかしながら、女性が王になれたということは当時としても破格の決定だったようです。善徳女王の父、真平王はいろいろな制度の整備や王の権力の強化、反乱勢力を徹底的に除きながら、娘への王位の継承を行います。
善徳女王は即位した後、うまく政治を行いました。善徳女王の時、新羅は百済や高句麗との戦いでも勝利を収めています。仏教を重んじて、宗教の力で国民の心を一つにし、また農業の生産力を増大させることに努力しました。
善徳女王は結婚しなかったため、当然子どもがなく、従妹に王位を譲ろうとしましたが、貴族の一部が女王の末期に反乱を起こしてしまうのです。

当時反乱を鎮圧したのは金?信将軍でした。彼は滅ぼされた加羅の王族の子孫で、新羅の保守的な貴族からは無視されていた存在でした。善徳女王はそのような金?信を抜擢して軍事権を与えて、また真骨の貴族から無視されていた王族の金春秋に政治を任せました。実力を中心に人材を抜てきしたのでした。それも善徳女王の能力だったのです。
善徳女王の死後、従妹の真徳女王が即位しました。金?信など反乱を鎮圧した新興貴族は新しい女王の絶対的な信任を背景に三国統一の道を開いていったのです。

新羅が三国を統一した後に、もう一人の女王、真聖女王が登場しました。新羅に3人もの女王がいたのは、女性という社会的に不利な立場を乗り越えて、自ら新しい智恵を持って、時代の流れに積極的に対応することができた賢い王様だったからだと考えられます。
韓国史上ただ3人しか居なかったという女王の話でした。日本の天皇の中にも有名な女性天皇がいます、今また、女性天皇のことが、話題になっている日本です。女王というのが特別のことなのか、私にはよくわかりませんが、今まで知らなかった新羅の女王たちのお話は興味深いものでした。
その8・百済の対外交流 その10・新羅の花郎