韓国の歴史
その8・百済の対外交流
2001年の誕生日を前に、W杯共催国である韓国への思いを聞かれた陛下は、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話されたそうです。
 皇室と古代朝鮮との結びつきを論じる学説は以前からあったそうですが、天皇自らが、その血縁関係に言及されたのは初めてのことだとか。そのように日本と関係の深い韓国、私もあまり詳しくないのでもう少し勉強をしていきたいと思います。
「寧東大将軍百済斯麻王」斯麻王のネーミングについては、海中の主嶋で生まれたので「斯麻」と名づけられたと言われています。この「主嶋」ですが、佐賀県玄海海中公園の加唐島と言われています。
母親が武寧王を身ごもったまま大和に来る途中、加唐島(かからのしま)で生まれたので、嶋王(しまおう)と呼ばれたという話が「日本書紀」に記されています。当時の大和と百済がどれほど密接な関係を持っていたのかを物語る証拠であると言われています。武寧王の墓からも日本との親密な関係がうかがえます。王と王妃の棺桶に使われた木材は世界的にもまれな金松と呼ばれているもので、日本列島の南部だけに生えています。その金松は、昔から日本でも支配層だけが使うことができた貴重な木材・高野槙(コウヤマキ)でした
そして武寧王の墓からは、中国の梁(りょう)王朝の貨幣や陶磁器などが沢山出土していますし、墓の様式も中国の梁王朝のそれと似ています。

中国の南朝と百済、そして百済と日本との緊密な交流は、武寧王の時代がその頂点だったと考えられます。当時の中国や日本の文物が残っている武寧王の墓がそれを雄弁に物語っているといえるでしょう。
武寧王の初期の百済は、まだ高句麗の南進政策に押されて滅亡寸前の危機的な状況に置かれていました。こうした状況で、中国との交流は先進文物を受け取るほかにも高句麗の勢力を牽制することにその目的がありました。その目的のために、百済と大和との間にも外交的な接触が活発に行われましたが、その内容は百済から先進文物を伝える代わりに、大和からは軍事的な支援を得るということでした。
それでは、日本の古代国家の形成に大きな影響を与えた百済の先進文物とは一体なんだったのでしょうか。
奈良の広隆寺にある日本の国宝1号である弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)。この美しい宝物は、百済から仏教を受け入れて、日本の古代文化を発展させた飛鳥時代のもので、百済の仏像の美しさをそのまま伝えています。聖徳太子が活躍していた推古朝の時代に当たります。

蘇我氏が政権を掌握していた聖徳太子の時代に、日本は仏教の受け入れに積極的でした。仏教は古代日本が中央集権的な律令国家に発展するための理念的な装置の役割を担いました。この時代に歴史的な古い木造建築物として有名な法隆寺も創建されました。百済から大和に先進文物が伝わったのは、かなり前の時期からだそうです。代表的な人物として、4世紀末に大和に漢文を伝えたといわれる王仁(わに)博士らがいます。
高句麗に屈服し、また新羅にも押されて、いまの夫餘に移ってからは、百済と大和との関係はより深くなりました。いろんな分野の百済の知識や技術などの文化が日本列島に伝わっており、また知識や技術の持ち主である多くの百済の人々が海を渡って日本にやってきました。

三国時代の三国の中であまり知られていない百済。しかし百済の文化は、千年の年月が過ぎた今でも、日本の文化の中で輝いています。百済は韓国古代の最大の文化輸出国だったのです。
三国時代の三国の中であまり知られていない百済・・・この言葉は私は韓国からみた感想のように思います。私は、日本では百済という国は大きく影響を残しているので、新羅や高句麗よりもよく人々に知られているように思いますが、どうなんでしょうか。仏教の影響が大きいからだと思います。同じことでも、国によって、見る側によって感想も違ってくる、双方から眺めた夫々の大切さを感じました。
その7・百済の武寧(ムリョン)王 その9・新羅の3人の女王