韓国の歴史
その7・百済の武寧(ムリョン)王
南海岸から平壌のピョンヤンジョウの手前まで、韓半島の中部一帯を掌握した近肖古(クンチョゴ)王の代に全盛期を迎えた百済でしたが、彼の死後は、高句麗の広開土大王、続いて長寿王の南下政策によって最大の危機に直面する、ハンガン流域を奪われてから、王の力も衰退し、二度も王が貴族に殺されるという事件が続きました。
そんな百済を立て直したのが、第25代王の武寧(ムリョン)王でした。今日のお話の主人公です。百済を立て直したことが最大の功績です、その他に彼の功績は死してなお、ということが言えます。

死してなお、ということが今回のお話の中心です。
武寧王は百済を立て直した王様です。高句麗を牽制するために中国の南朝と緊密な関係を築き、先進文物も受け入れ、国力の向上を図りました。また、隣国・新羅を牽制するために、日本に先進文物を伝えて、その代わりに日本からは軍事力の支援を受けました。
1971年に武寧王の墓が発掘されました。武寧王の墓からの出土品の90%は中国や日本からのものでした。墓の様式も中国式です、「三国史記」でも武寧王は国民生活の安定をはかり、506年の飢饉の時の救済政策や、堤防の建設、農業の奨励など、国民の支持と信頼を得ることができたと記されています。
1971年の発掘は韓国考古学史上最大の発掘といわれています。この発掘に関わった韓国の考古学者のお話です。「この墓は本当に盗掘されていないようだ、きっと何か見つかるぞ おっ中が見えた あれは何だ 入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ。もっと奥の方を照らして、あれは王様とお后様の遺体だ、きらびやかな飾り物に覆われている」
武寧王についての記録を刻んだ石の碑文が発見されました。そこには「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」書かれており、墓の主人公が武寧王であることが明らかになり、墓の主人公が誰だか分かった唯一の王陵となりました。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、武寧王陵の木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)と判明したことも大きな話題となりました。
この他、副葬品が部屋一杯にありました。金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土しました。
武寧王の墓からは百済文化の研究のための決定的な資料が得られました。そこに古代の韓日関係の鍵が隠されていたと言っても過言ではありません。 その日韓関係の歴史の鍵とはなんでしょうか。東アジアの物流の中心地的な役割をしていたということです。

「寧東大将軍百済斯麻王」斯麻王のネーミングについては、海中の主嶋で生まれたので「斯麻」と名づけられたと言われています。この「主嶋」ですが、佐賀県玄海海中公園の加唐島を当てるのが、わが国では有力な説らしいです、つまり武寧王は、倭で生まれたことになります。
お墓を発掘した博士の言葉「入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ」この墓の入り口に置いてあった獣の石像とは何でしょうか。「石獣」と言われていますが、ガイドブックによっては「石熊」と書いてあるものもある。熊と豚と猪を掛け合わせたような姿をしているが、想像上の動物と言う。しかし、建国神話が熊を取り上げている所を見ると「熊が主体のもの」と思いたいですね。
その6、百済の全盛期 その8・百済の対外交流