韓国の歴史
その6、百済の全盛期
韓国古代史の中で、百済は、中国と活発な交流をして、百済文化を日本に伝えた古代史上最大の文化輸出国家であったという所に大きな意味があります。しかし、また全体を通すと、高句麗、新羅、百済の3国の中で一番印象が薄いのが百済といえます。百済は高句麗の領土拡張政策で都が漢江(ハンガン)の南へ移らざるを得なかったし、最後は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされてしまいます。
百済の語源は、扶余の東明王の後裔である扶余王尉仇台が高句麗に国を滅ぼされ、百の家族を伴って済海(海を渡る)し、帯方郡の地に国を建てた。それが「百済(伯済)」の語源と言われています。

今のソウル市東南部に都を置いていた百済。その時期に百済の最初の全盛期が訪れます。風納土城(フンナットジョウ)と夢村土城(モンチョンドジョウ)石村洞(ソクチョンドン)の古墳群などが、その時代の遺跡です。
それでは実際の様子はどうだったのか、風納土城を例にして、1997年の発掘に関わった歴史学者は当時の百済社会を次のように説明した。風納土城の城壁は周囲4キロ、高さ9m、下の幅が40mありました。その城壁は小さな砂利や石も使わないで、微細な土だけで巨大な土城を完成させています、ということは、大規模な動員ができた専制王制の存在を物語っているのです。そのような技術は今も日本の九州や近畿地方に残っている朝鮮式山城で発見することができます。百済が滅亡した後、日本に渡った人々の技術によって築かれたものです。

文化と共に百済人もたくさん日本に住むようになり、多くの文化が日本に伝えられたのですね。
初期百済の都の跡地からは、3世紀半ば頃の中国の場子江の南部で作られた土器や日本で作られた土器や5世紀頃の慶尚南道、すなわち加羅の土器も発見されました。当時の風納土城は、中国の南朝や倭(やまと)、加羅との活発な交流が行われた東アジアの交流の舞台だったのです。
4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王の時、百済は全盛期を迎えます。その領土は南は南海岸まで、北は平壌城ピョンヤンジョウの手前まで、そして韓半島の中部一帯を掌握したとみられます。近肖古王は韓半島の南にあった加羅にまで手を伸ばして影響力を行使し、その後は高句麗に矢先を向け、371年には大同江テドンガン流域にある平壌城を攻撃しました。その戦争で、 近肖古王は高句麗の故国原王コグゥオンオウを戦死させる戦果を挙げ、百済は史上最大の領域を掌握しました。

近肖古(クンチョゴ)王は王位の継承を父子相続に変え、王妃となる家柄も決めて、王室の支持基盤を固定化させました。強力な王制を中心とした国家形態を確立しました。そして国の歴史書も編さんします。
しかし近肖古王が死んだ後、百済は衰退し始め、高句麗の広開土大王、続いて長寿王の南下政策によって最大の危機に直面するようになります。百済は 、ソウルの漢城ハンソンまでも失ってしまいます。仕方なく当時、熊津と言った今の公州コンジュに移るしかありませんでした。歴史的に韓半島では漢江を掌握した民族や国家が一番強力な国家になることができたといえます。

ハンガン流域を奪われてから、王の力も衰退し、二度も王が貴族に殺されるという事件が続きました。
そのような百済の危機状況を立て直したのが第25代王の武寧(ムリョン)王でした。そのお話は次回に。

ヨンジュン様のチェジュでの撮影が始まる?といいながらなかなか正確なニュースが伝わってきませんね。私のこの「韓国の歴史」も高句麗に関わる周辺の国々のお話になってしまって、なかなか高句麗に戻れません。少し焦り始めています。でも、国はその国一国でなりたつ訳ではなく、周辺の国々とどう関係を持ちながら歩んでいくか、そこが大事です、そう思うと、高句麗の周辺の国々を良く知ることも大切なことなんですね、焦る気持ちに言い聞かせています。
その5・高句麗の領土拡張 その二、広開土大王(好太王) その7・百済の武寧(ムリョン)王