韓国の歴史
その5・高句麗の領土拡張 その二、広開土大王(好太王)
鴨綠江沿いの中国吉林省集安(チーアン)、山合いのこの地は400年間、高句麗の首都でした。ここに有名な広開土大王の石碑(好太王の石碑)が残っています。その石碑には、広開土大王の時代に高句麗の人々が直接経験したこと、広開土大王の領土拡張のための戦争の記録が1705個の文字で詳しく記されています。高さ6メートル40センチの石碑です。
広開土大王(カンゲト大王)は、鴨綠江以北の大陸は放射線状に征服し、同時に南の狭い地域は、水軍を使って、海から攻撃する方法で成功を収めました。大王が最初に攻め入ったのは百済でした。

大王の祖父の故国原王が百済との戦いで戦死したので大王の百済征伐は、その復讐でもあったのでしょう。百済の都への入り口であった、カンミ城を攻略する計画を立てたのです。カンミ城は今の漢江の河口にありました。

高句麗の水軍の奇襲攻撃を受けた百済は、なすすべもなく、カンミ城はあっけなく陥落してしまいました。カンミ城の陥落は、西海岸の支配権が高句麗の手に入ったことを意味し、漢江沿いにあった百済の都、漢城(今のソウル)が無防備の状態となり危険にさらされることを意味します。
西暦396年に、大王は百済の都である漢城を攻撃します。百済のアサン王は、大王に降伏せざるを得ませんでした。これを契機に、高句麗は西海岸を含む、漢江以北の地域をほとんど治めることになりました。

百済との戦いは、これで一応決着がつき、百済は高句麗に朝貢をするようになりました。それでは、新羅との関係はどうだったのでしょうか。
百済と加羅、倭の軍が新羅を攻撃したので、新羅は高句麗に救援を要請します。大王はその要請に応じて10万の大軍を派遣します。それ以来、新羅も高句麗に朝貢をするようになったといいます。

高句麗の勢力は、百済と新羅を圧倒し、強い影響力を行使していました。しかし、高句麗は百済や新羅について直接統治をしようとはしませんでした。
高句麗をはじめ、ほとんどの北方の遊牧民族は直接支配するのではなく、いわゆる間接支配をします。広開土大王も自分の秩序の中に編入させることで満足したのでしょう。
広開土大王は戦争だけではなく、文化や政治にも力を注ぎました。記録によると、平壌に九つの寺を建て、仏教を振興させたことや、官僚制も整備して、国の支配体制を整えました。

高句麗が漢江流域を手に入れたのも、食糧供給のための平野を占領するためでした。また漢江は中国との交易の通路でもありました。大王は単純な領土拡張主義者ではなく、偉大な戦略家でした。

広い満州の平野と遼東半島の隅々まで駆け巡った広開土大王。彼の時代に、強大国、高句麗は全盛期を迎えたのでした。
好太王の碑、私が中学か高校か、多分高校だったと思いますが、世界歴史で学んだ中で、バビロニアのハンムラビ法典やロゼッタストーンと並んで興味を持ったのがこの『好太王の石碑』です。見てみたい、ずっと思っていました。が、この石碑がこんな形でまた私の前に現れてくるなんて、何だか運命のようなものを感じます。

高句麗の歴史が刻まれていると思っていましたが、ヨンジュン様演じられるところの、広開土大王(カンゲドテウァン)の活躍の記録だったんですね、ますます見たくなりました。そしてますます太王四神記(テウァンサシンキ)の撮影開始、ドラマ放映が待たれます。
その4、高句麗の領土拡張 その1、デムシン王 その6、百済の全盛期