2019年4月3日~4月13日:イタリア旅行・・・第九日目 
4月11日:ローマ歴史地区~空港へ
朝の6時、イタリア最後の朝と思うと、ちょっと残念な気持ちがします。もう少しここに居たい気持ちが大きいです。今日は良い天気になりそうです。
この大きな建物は、ホテルの近くにあるトヨタの会社のビルです。日本の方も多く頑張っていらっしゃるのでしょう。ご苦労様です。私も、息子たちのことを思いました。 
今日はいよいよ空港へ行く日です。出発は少し遅いのでまずはゆっくり朝食を食べましょうとロビーへ降りました。ロビーの半分はレストランになっています。広い広い、天井はイタリアの空になっています。
 
もうコンチネンタルの朝食を食べるのも最後、おいしいイタリアのチーズやハムを頂きます。 
ローマ最後の今日は何に出会えるか、心もワクワクします。ごちそうさまの後はお部屋へ帰って、荷物整理をして、スーツケースを持って、降りました。
ホテルの前はローマ中心部へ行く車が数珠つなぎの通勤ラッシュです。 その中へ私たちの大きなバスも入り込みました。

まず最初に行くのは?
「サンタ マリア イン コスメディン教会」です、と言うより「真実の口」と言った方が分かりやすいです。
 若き日のオードリー・ヘップバーンが演じた『ローマの休日』に登場したことで一躍有名になったこの観光名所、真実の口があるのは この高い塔が目印の教会です。七層の「鐘楼」は、典型的なロマネスク様式でローマの街に残るロマネスク様式の鐘楼の中でも、最も美しいといわれているそうです。(写真をクリックしてください、もう少し大きな画像で見えます)
 私たちが「真実の口」と呼んでるのは、古代ローマ時代の≪マンホールのふた≫だとか。
古代ローマ時代、マンホールのふたには「雨水を飲み込む」という意味をかけて、水に関わる神の顔がよく彫られていたそうです。そういうことから古代ローマの遺跡からはこれ以外にも様々な「顔」を彫った装飾があるそうです。
この真実の口のお顔は≪海神トリトン≫の顔で古代のマンホールの石蓋です。傍に献金箱があって、『よろしくお願いします』と日本語もあり一人1ユーロ、写真は1回となっています。添乗員さんが順に写してくれました。
美しい鐘楼が特徴の「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会」。この辺りは、古代ローマ時代には首都の中枢部でした。
ギリシア神話の英雄「ヘラクレス」に捧げられた神殿があったところとも伝えられています。そしてキリスト教会の建立がはじまったのは、伝説によれば6世紀頃とか。
ローマが栄え、そして、衰え、キリスト教会が建てられる、また壊される、と、歴史は繰り返す、栄枯盛衰という言葉なども思い出すローマの2000余年です。
 真実の口に手を入れて、また抜くことも出来て安堵。そして、由緒ある教会の見学もして外へ出てきました。見るだけであちこちに遺跡があるのが分かります。青い空に笠松の特徴ある姿、まさしく私は今、イタリア・ローマに居るのです。
「真実の口」の裏手にある細長い広大な敷地、それが「チルコ・マッシモ」と呼ばれる古代ローマ時代の競技場跡です。 1959年には、チャールストン・ヘストン主演の「ベン・ハー」が撮影されたことでも知られています。エトルリア人五代目の王(在位紀元前616-579年)によって原型が作られた。その後拡張が行われ、カエサルが紀元前46年に中央分離帯を作り拡張し、収容人数25万人とも言われる。ここで1000人の歩兵、600人の騎兵、40頭の象による模擬戦をカエサルは開きました。
傍のパラティーノの丘には皇帝の宮殿などを作り、今も遺跡として残っている。「チルコ・マッシモ」は、現在でもコンサートなどで使用されます
「コロッセオ(Colosseo)」。円形闘技場として西暦72年から10年間を費やして建てられた建築、古代ローマ時代、皇帝ウェスパシアヌス(Vespasianus)の命によって造られたとされる円形闘技場でした。大きさは長径188mの楕円形で、その収容人数は驚きの8万人(文献により前後します)これは、現代の巨大スポーツスタジアムとほぼ同じ大きさです。ローマの街中にこの巨大な廃墟が堂々と建つ姿は圧倒的な迫力で、古代ローマの栄華と驚くべき建築技術の粋を今に伝えます。
この見事な建築物の資金の出所はユダヤ戦争での戦利品だったとか、5世紀まで幾度となく改築され古代円形劇場は他の用途のために6世紀に本来の役割を終えた。そして考古学的遺産の真の受容性、途方もない支配力を追悼させる都心の遺跡という独特な景観といった価値に注目されるまで放置された時代が続いた。
保存状態は、建物の方位や資材の強度により大きく違うが、地震による倒壊、資材の再利用、略奪により悪化している。4つの建築様式が積み重なっている、有機物による被覆、植物による害、黒い皮膜、雨水の浸水、ひび割れが多い。
外壁の最初の調査は1997-1999年のこと、風化の原因は大気中の粉塵の沈殿、深く浸透する硫酸をともなう黒い皮膜(大気汚染かと思う)材質は石灰華というものが使われていて、表面積22743.94m2のうちの19447.2m2が石灰華であり、最初に有機物の広がりをとめる、歴史的経過でない石のへこみや欠落を補う、図面をおこして構造上の問題を掘り下げる、など課題は多くこれからのことになるようだ
(以上、コロッセウムの現場の掲示板からの要約)
一行の中の若いお嬢さんが、どうしたら全景とお二人が一度に写せるか、いろいろ考えてここが良いと思ったので、どうぞ!と、親切に写してくださった。コロッセウムの大きさが分かりますね。 
外壁は楕円形で長径189m 短径156m、外壁の高さは48m 中に作られている円形中央闘技場(アリーナ)は長さ87m幅55mの卵型で高さ5mの壁に囲まれていました。しかし、何世紀かにわたる地震で崩れ、大きく損傷し、楕円形の外壁として残っているのは内壁で、北側にのみ外壁が残っています。 
残っている外壁は石造りの土台の上に乗った三階からなるアーケードから出来ていてその上には背の高い装飾的な壁になっています。私の後ろが外壁です。端は補修補強されているので色が違います。
見学を終えて階段を上って地上に上がってきました。ここは朝、真実の口のあとに見た 「チルコ・マッシモ」とパラティーノの丘に建つ皇帝たちの住居の遺跡です。
 今、見てきたコロッセオをもう一度見ました。内壁の最上階が見えていました。窓からは青い空が見えます。ここで幾多の人たちや動物たちが殺されたのかと、ちょっと辛いですが、建築上からいうと、素晴らしい設備が整っていたのですね。もちろん、日焼け止めの天幕もあり、またアリーナに水を貯めて模擬海戦まで見せていたというから、驚きです。
現代の建築にも多くの示唆を与えたり、競技場とはと思う時、2000年の差がいかほどあるのか、との思いもします。凄いなと感心することしきりです。(もっとも当時ここでしていたことはどういう意味があったのか、許せないことが一杯ですが)
「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会」です、聖堂正面に「ローマ、そして世界の聖堂の母」と刻まれています。世界で最初に造られたキリスト教の聖堂だとかローマア帝国末期の312年宿敵マクセンティウスを破って凱旋した皇帝コンスタンティヌスは勝利の記念にイエスに捧げる聖堂を建立し、教皇に寄進しました。中世の政治的混乱から1337年、約1000年間、ここラテラノ聖堂がカトリックの中心地でした。1929年、ムッソリーニと教皇庁が協定を結び、バチカン市国を誕生させたのも、この場所でした。
添乗員さんと一緒にローマの街中を歩きます。ここは少し上り坂の有名な坂らしいです。ここからどっちにむいて行っても有名な観光地に行けると言ってましたが、私たちはここをまっすぐに行ってトレヴィの泉へ行きます。 
トレヴィの泉(Fontana di Trevi) に着きました。
バロック時代に作られたローマの噴水の中でも、最も大きな人工の泉、人気の観光名所としていつも賑わっています。ポーリー宮殿と合わさるようなデザイン、芸術的な彫刻には、中央には、水を司るポセイドーン、その両脇に女神ケレースとサルースが配置されています。トレヴィの泉の起源は紀元前19年というからその歴史の長さに驚きです。
後ろ向きにコインを投げ入れるとまたここに来られるという言い伝えのあるトレヴィの泉です。人で一杯、遠慮していたら水面も見えない、というので、前へ前へと押しでてコインを投げました。あれっ?音がしない、ダメだったのかしら?傍でお友達が大丈夫だったよ、と。優しいこと! 信じてます。
 帝政ローマ時代、町まではるばる引いてきた水道の末端に、工夫を凝らした泉を造ることはひとつの習わしだったとか、水道は20キロ先から引っ張られてきたそうな、最初は樋から落ちる水を3つの水盤が受ける物だったが「蛮族の侵入」で壊された。
泉の再建は1453年に始められたが完成は1730年になってのこと、コンペをして造り今に至る。
泉のすぐ前のジェラートがおいしいとのこと。早速買ってきて食べました。良い思い出になります。
次は有名なスペイン広場です、こちらも映画「ローマの休日」で有名になりました。135段の階段の後方にはフランス人信者のための「トリニタ デイ モンティ教会」があります。ここへの便宜としてフランス外交官の寄付によって1725年にできた階段だそうですが、近くにスペイン大使館があることからスペイン階段、その前にある広場はスペイン広場と呼ばれるようになったということです。
 
私たちが行った時、階段には植木鉢がたくさん並んでいました。つつじがほんの少し咲き始めていました。単に初夏の花が飾ってあると思っていましたら、先日、テレビニュースで「スペイン階段のつつじ祭り」として放映していてびっくりしました。そのための鉢植えのアザレア(つつじ)だったのですね。今はきっと満開で美しいことでしょう。 
とにかく人が多いこと、人に疲れて階段に座っているのが気持ちよかったです。
 階段を登り切ったらそこには人や車も一杯の通りがあり、ちょっとびっくりしました。サンピエトロ大聖堂のクーポラが目の前にあり、それにもびっくりしました。この季節のイタリアは子どもたちの修学旅行シーズンで観光地のどこにでも子供たちのグループが来ていました。
 とても美しい色合いの建物が並んでいます。
気が付くとヴァチカン市国の所に来ていました。
また歩いて昼食のレストランへ来ました。石窯があります。今日のお昼はピッツアです。親しくなった4人でテーブルを囲みました。 ワインを飲みましょうか、とグラスワインをオーダーして乾杯!焼きたてピサを分けて戴きます。石窯の赤い炎が美しい~
石窯の炎が気になって写しても良いですか?と言ったら、写して写して、と奥から店の人たちが出てきて、写しました。終わったら、今度はカメラ貸して!とお店の人が私にさあさあ~と、ピッツアドウを持たせてくれて職人さんとパチリ。   
ハイっとカメラを返しにきて、今度は・・・ピース!来合わせた添乗員の杉野さんを捕まえて、ハイッ!愉快なイタリア人でした。 

席に戻ると、また大きなピッツアが来て、また半分こ、ってことは、一人が一枚食べることになります。それは無理、申し訳ないですが、少し残しました。ローマのピッツアでドウが薄くて助かりました。
デザートはティラミスです。前に写真を見てティラミスかと書いてしまったのはチョコレートケーキでした。書きなおして来ました。 すみません
こちらが本物のティラミスです。おいしいです。ティラミスでは思い出があります。昔、ようやくインタ-ネッが繋がった頃、私のお菓子のページを見てイタリアの青年から僕もケーキ作りが大好き、グランマに教えてもらう、とメールが来ました。レシピをいくつか送ってきて、それを作って写真を見せると大喜びでした。私はその時、ティラミスの作り方を教えてとお願いしてレシピを頂きました。簡単でおいしいというレシピでしたが、マスカルポーネがまだ珍しい時代、なかなか手にいらなくて困ったこと覚えています。後に青年は徴兵になり、ボランティアを志願したと書いてきました。優しい人だったのですね。今はもう立派なお父さんになっていることと思います。
「コンスタンティヌス帝の凱旋門 Arco di Costantino 」コロッセオのすぐそばにある高さ21m、幅25.7m、奥行7.4mの凱旋門、312年にコンスタンティヌス帝が勝利をおさめた時に建てられた建築物です。 
その後はショッピングの時間と称して三越デパートへ案内されたり、ローマ駅の中のスーパーなら行っても良いとのことで友達になった人たちと一緒に駆けていきました。自分へのお土産のようなお菓子などを皆が買って外へ出たら、スコールのような雨、集合時間も来ているし、雨に濡れながら他の人たちを待ったのも良い思い出です。
飛行機は大韓航空で韓国の人たちが多くて速く集合をするので私たちも早く行きましょう。とバスは走りました。
夕方にかかりましたが思いがけず早くバスはレオナルドダビンチ空港に着きました。ロビーにはダ・ヴィンチの有名な『ウィトルウィウス的人体図』のモニュメントが置かれていました。正式空港名は「フィウミチーノ空港」というそうです。ローマ市内から30キロほどの距離だとか。
インチョン行きの搭乗口へは新交通システム「スカイブリッジ」によって連絡しています。ほんの数分のことでした。 
搭乗口ロビーでは、ラウンジが使えたので行きました。広くてきれいで、設備も整っていてびっくり。しかし、飛行機に乗ってからの夕食も楽しみなのでおやつ程度にして早々に出てきました。 
飛行機は、来る時とはまた席の具合が違っていましたが、やはり大韓航空の基調色の空色で美しい室内でした。
キャビンアテンダントの方が何枚も写真を写してくださった。そして、メニューを早速持ってきてくださって、明日の朝食も含めてオーダーをした。 

 夕食は季節野菜のナムルと牛肉のビビンバ、夫は牛のテンダーロインステーキでした。デザートはチーズにフルーツです。飛行機の中で寝て、起きたらもう次は韓国インチョです。イタリアダ・ヴィンチ空港から飛行機は飛び立ちました。とうとうイタリアとお別れです。
戻る   続く