2019年4月3日~4月13日:イタリア旅行・・・第六日目
4月8日:フィレンツェ~ナポリ~ポンペイ~ナポリ
以前はシェラトンホテルだったというフィレンツェのカンファレンス フロレンティア ホテルの朝食です。コンチネンタルの朝食にも慣れてきて要領ももよくなりました。ヨーグルトがおいしい、フルーツをもらってきて、ナイフで剥いて食べます。洋ナシ(と言わなくても良い、ナシですね)が少し硬いですがおいしい。リンゴもおいしいです。 
レストランのロビーにイタリア地図がありました。改めてしげしげと、長ぐつの形と言われる地図を見ています。長ぐつの履き口に当たるあたりのミラノから、少し下がってフィレンツェまで来ています。今日は、イタリアの特急電車に乗って、一気に足首の辺りナポリへ、ポンペイへと、首都ローマを飛び越えて行きます。旅程も半分を過ぎてもう6日目です、一日一日飛ぶように過ぎていきます。 
 スーツケースはバスに預けて私たちは手荷物だけでフェラーリ特急に乗ります。バスは荷物だけ積み込んでナポリ出身のジョバンニ氏が一人で走ります。家に帰れるとご機嫌なんだとか、働き方改革では無いですが、労働時間の決まりがあって、オーバーすると停止になるので、スケジュールと労働時間はとても厳しく組んで行くそうです。でも、素晴らしいことでうね。

フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着ました。
赤がシンボルカラーのイタロ、 イタリア高速鉄道イタロ(Italo)とは、イタリアのNuovo Trasporto Viaggiatori (NTV)が運営する高速鉄道です。2008年からスタートしたイタロは、これまでイタリア国鉄のみだった所へ参入、低価格、高品質でボディもおしゃれ、だと言われています。

ここはチケット売り場、チラリと見学しました。
 イタロには、3時間近く乗ります。自分たちでランチを調達して乗りましょう、とのことで早速にランチ調達に行きました。車内販売が無いです。
お金を払ってから現物を頂くシステム、人は込み合っているし、言葉はわからないし、デジカメでほしいものを写してレジで見せて、そのお金を払う。そうしてレシートを持って現物の前に行くと袋に入れてくれてやっとわが物になる。という買い方です。勝手に品物を自分で手にするシステムだと、そのまま行ってしまう人もあるのだとか。
改札もありませんが、ホームに入りました。電光掲示板を見上げてます。まだ私たちの乗る電車のホームが決まっていません。

ああ、やっとわかりました。 
 まだ時間があるので、車両との記念写真タイムです。同じ車両ですから、こちらで、と見に行きました。
イタリア国旗がかっこよいですね。
色も形もとっても素敵です。流れるようなボディです。 
フェラーリに例えられて、フェラーリ特急と言われることもあるそうです。ロゴマークは飛ぶうさぎです。飛ぶように走る走るでしょうか? 
 走り出しました。滑るように走ります。座席は、回転はしないので、前向き、後ろ向きと選ぶことが出来ません。私たちは2等車です。全席指定、

列車に乗ると何だか食べたくなります。さっき買ったサンドイッチ野菜と生ハムがはさんである。しかし、なんとも殺風景でさみしいです。飲み物はブラッドオレンジです。
 窓の外は、田園風景が広がっています。建物が出てくると駅です。
 大きなおしゃれな建物が見えてきました。ここはローマ中央駅の一つ前の駅の「ローマ・TIBURTINA駅」
次が ローマの玄関口である中央駅の「ローマ・テルミニ駅」です。私たちはここで降りないで、ナポリまで行きます。テルミニの由来は、この近くにある古代ローマの公衆浴場のテルメ、テルマエ、からつけられたそうです。
パリ、ミュンヘン、ジュネーブ、バーゼル、ウィーン等に向かう国際列車が毎日運行されているそうです。
 路線図がありました。長ぐつの左寄りを走る路線に乗って足首の辺りのナポリまで行きます。
 
イタリアらしい(と自分で勝手に思い込んでいる)空です。そして、笠松が繋がっています。こんな風景が見られることがうれしいです。 
 折角だから、列車のトイレを見学に行ったり、通路でウロウロしてみたり、1等車にも行ってみたかったですが、、、まあ、ネットで見ましょう。
 電光掲示板に速度が出ています。300キロです。最高速度が出ています。今日は良いお天気で19度のようです、やっとイタリアへ来たという空模様になりました。
 またまた大都会の近くに来たなと思う景色になりました。ナポリに近づいたようです。大きな駅の少し手前には駅があります。支線への駅です。そこで添乗員さんは、今度は降りませんよ、その次が私たちが降りるナポリですよ、と触れて回ってます。
ここがナポリ中央駅の一つ前の駅です。ナポリ駅には10分くらい止まってますからあわてないように降りてください。と、教えてくださっています。
ナポリセントロ駅で降りました。やはり人が多いです。はぐれないようにバス駐車場へ行きます。そして、今までより少し小型の観光バスが待っていてそれに乗りました。窓の外はイタリア南部の空気が広がっています。家々の窓やベランダには洗濯物が干してあり、車は物凄く込み合っています。
 バスの窓から見ているだけで悲鳴を上げそうです。クラクションは鳴るし、路上駐車は一杯あるし、その中を立派な車が走ります、後ろからはバイクが追い越します。ここでは運転は出来ないですね、と皆の声です。今までとまるで町の様子が違うイタリアここはイタリア南部です。
 このバスでポンペイの遺跡見学に行きます。なだらかな山、これがヴェスビオ山です。真ん中は噴火で飛んだのだとか、有名ですが、まるで見当がつかない2000年前の火山の噴火で埋まった街なんて、今、どうなっているのか、、
遺跡の入り口に歩いていきます。道路の並木は蘇芳です。蘇芳がこんなに大きく育つなんてびっくりです。イタリアのあちこちで見る今が盛りの蘇芳です。 
桜でもないし、何ていうんだろう、葉を見るとどうも我が家の蘇芳みたいですが、大きすぎるなんで思いましたが、やはりハナズオウでした。 
 ユネスコの世界遺産・「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として登録されています。
入り口に入りました。
ポンペイの町の地図です。 日本の弥生時代のその前ごろにもうこんなに碁盤の目状の町が出来ていたのですね。町のおこりは紀元前7世紀頃で近くを流れるサルノ川の河口付近の丘に集落があったとか。一番右端の角がコロッセウム、野外競技場です。
 入り口からもうこんな遺跡が見えます。公共の建物、アパートなどと言われたような、きれいに並んでいます。

62年の地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になったそうです。


日本も火山の多い国、そして大分は活火山もあります。大きな教訓をもらったようです。心したいと思います。
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、翌日に大火砕流が噴出し、一気にポンペイの町を焼き尽くした。その速度は100キロ とのこと。



やぐらを組んでまだ発掘中の所もあります。
  
 見事な柱廊です、向こうにはヴェスヴィオ火山が見えています。この広場は剣闘士養成所だそうです。グアディエーターを養成する所です。楕円形や円形のコロッセウムで剣闘士同士で戦ったり、猛獣と戦かわせてそれを見て喜ぶ人たち。何故、こういうことをして皆が喜ぶのか、わかりません。でも、いろいろ映画でも見せられてきました。
 2000年前に地中に埋もれてしまった町を多くの人が歩いています。
突然、ヴェスヴィオ山の上半分が裂け、強烈な爆風と共に、人々が吹き飛ばされ 山の裂け目からは真っ黒な噴煙が立ち上り、辺りは夜よりも暗い闇の世界となった。人々は息苦しさを覚える間もなく息絶え、みるみる灰が建物、人々を埋め尽くした。

それから1800年、ようやく発見されたポンペイの町です。
この大きな壁のような建物は、円形劇場のステージの背景になる所です。 
こんな使われ方をしていた、と、その様子が描かれたパネルが置いてあります。 
ここがステージの前の観客席です。すり鉢状になっています。くらいの高い人の座る席と、身分の低い人の座る席は、ごつごつの石のままだとか、身分制度で座る所が分かれていました。しかし、一緒に見ることが出来たということは、まだよかったなと思います。
ステージの音響はとても良かったそうです。ステージで音楽を聞かせてくれて、私たちのグループは手拍子をしたり、歌ったりして試しました。たくさんの方が聞かれていましたが、最後には一緒に手を叩き、楽しみました。 
大きな団体の人たちが進んで行きます。今のイタリアは修学旅行のシーズンだとか、どこへ行っても子供たち、中高生などの団体に出会います。 
この岩は、道路に敷かれあ岩です。車道です。馬車が通る道です。馬車の轍ですり減っています。両側の岩は、横断歩道です。この岩を渡って、車道を横切ります。何故か、白い布をひらめかせ、皮のサンダルをはいた人たちがひょいと岩を飛び越えて、向かいの家に入っている、そんな様子が目に浮かびました。 
バールです。カウンターバーのような作り、食堂でもあり、人々が飲み食いしたお店。本当に様々なお店の並ぶ様子は、今の社会と少しも違っていないと驚きます。 
 歩道と車道がくっきりと区別して造られている。歩道の前には家々が立ち並ぶ、素晴らしい街の作りです。ここは歩道の手入れをしていましたので、私たちは車道を歩きました。石が敷かれていますが、ごつごつとしていて大変です。
道の両側にはいろいろな家が並んでいました。ここはパン屋さんだそうです。庭の丸いのは、石臼です。周りに奴隷がぐるぐると回りながら粉を挽いていた。こねたパンは 
奥にある窯で焼いていた、とは本当に動力が違うだけでほとんど今と変わらないですね。

ポンペイは身分制度がありました。奴隷が力仕事をしていたとか、円形劇場では座る席も違っていたとか、でも、比較的、おおらかに過ごしていたようです。いろいろ落書きも出てきて奴隷も文字が書けたとか、文化は進んでいたようです。 
 世界の各地からの船て運ばれてきた品を陸揚げし、ローマへと送り出す。そんな仕事で財を成した人たちの生活はとても豪奢なものでした。財は産業をおこし、また神社などへ寄進することで建築なども栄えていく。
 水道も引かれていて、道路に、水飲み場が出来ていた、貧しい人たちはここから水を汲んで家に運んでいたようですが、お金持ちの家にはこのように鉛の水道管が引かれて、家の中へ水が入ってきていました。
ポンペイには3つの浴場があります。このフォロの浴場とスタビア浴場、中央浴場の3つです。それも本当にきれいに今、見ることが出来ます。左下は浴室内の噴水です。当時の政治家が名前を刻んで寄付をしたそうです、そんなことまでわかってしまうのですね。
天井がカーブを描いているのは湯気がぽたぽたとおちないようにとのこと。

右下は、女性用の浴室で赤い色や壁のレリーフ模様が美しく残っています。ここは高貴な身分の女性専用だったとか、 
見学の人が多いと言っても、夏に比べたら、とガイドさん、物凄く多い人、そして、暑い気候、遮るものの無い緑の無いところ、本当に道路が一杯になる人、人、人だそうです。 
 遺跡の上の青い空、白い雲、本当に素晴らしい天気です。
家の壁が赤く塗られた所がありました。医者の家だそうです。それはこの赤い壁に渦巻きのような文様が描かれているのでわかるそうです。昔から医の印は蛇、そこでこの壁には蛇の絵が描いてあり、医者の家だと分かるのだそうです。
 ポンペイは海に面した港町で世界のあちこちから商船が寄港して、多くの商人がたちより、栄えた街でした。一夜を遊ぶ家、娼館もありました、とのこと。
 建物と、道の隙間から草が生えています。この草は、2000年前も生えていたでしょうが、火砕流で焼け焦げてしまった、しかし、またどこかから種が運ばれて緑になった。何か不思議です。
 日本では弥生時代のまだ前というのに、こんな素晴らしいモザイク画を床に描いていたポンペイの人たちはどんな素晴らしい人たちだったのだろう。
女性神官エウマキアが寄進した、エウマキア館の入口です。エウマキアとは毛織物業で財を成した女性。左右の門柱の大理石には繊細なアカンサス唐草のレリーフが施されています。、門をくぐって広場(フォロ)にやってきました。 
 
フォロ(公共の広場) 
フォロは、ポンペイ遺跡で一番のビュー・ポイントです。正面のヴェスヴィオ山が迫ってきます。山の手前に建つ列柱はユピテル(ジュピター)神殿のものです。
ポンペイはヴェスヴィオ山の南東麓にあり火口から9kmしか離れていないそうです。もう一つ被害を受けた街・ヘルクラネウムは西麓にあり火口から6.5kmしか離れていなかったそうです
  
左の写真に写っている3本の白い柱の建造物はマルケム(市場)です。その傍の建物は両替所で外国人はここで両替し手市場へ行った。賑やかな市が開かれた所。


右写真は発掘の遺物を保管している所です。たくさんのカメが並んでいます。ポンペイにはたくさのブドウ畑があってワインを造っていたようです。ワイン用のカメがたくさん保管されていました。
真ん中のガラスケースの中には、幼い子供が亡くなったそのまんまに復元されています。後は、私は見られませんでした。
アッと言う間に火山灰や土石流に埋まったポンペイの町は、その後、1700年間そのままに埋もれていました。火山灰などがシリカゲルの作用をして、そのままの姿の空洞が出来ていたので、そこへ石膏を注入してこのような人型を作ることが出来、さまざまな姿で最後を迎えた人や、犬などがいくつも作られて、瞬間の苦悩を見せているのだそうです。

下はフロントーネの家の壁画です。裕福な家の食堂の壁画だそうです。
建物に描かれていたフレスコ画の壁画も当時のままに出てきました。この赤は、 「ポンペイ・レッド」と呼ばれています。ポンペイの悲劇が今の世にその栄華の姿を見せてくれている、歴史とは皮肉なものです。
そして1700年火砕流の下に眠っていたポンペイはこうして日の目を見ることが出来た途端に、劣化が始まっているそうです。

添乗員の杉田さんと、ポンペイのガイドのマルコさんが話しています。ポンペイのガイドのライセンスを持っていないと、ガイドが出来ないそうで、ポールさんの英語を日本語に訳する形で私たちは説明を聞きます。
真っ赤なポピーがひっそりと咲いています。きっと、当時もたくさん華やかに咲いていたのだと思います。今、我が家の庭に、まさしくこのポピーが咲いています。何だか灌漑が深いです。
 
2000年前のポンペイをさまよい、今の世に出てきました。真っ白のモッコウバラが建物を覆っていました。
その前の庭には、お土産売り場があちこちにあり、オレンジレモンが元気をくれます。甘酸っぱくてキーンと冷やした飲み物が好評だとか、二口ほど飲んだら、頭が痛くなりました。とても冷たい、おいしい、イタリアのレモン水です。
バスでナポリの町に帰ってきました。車窓から世界遺産の「ナポリ歴史地」の見学です。マダム・バタフライと書いてあります。1737年にオープンしヨーロッパ最古のサンカルロ劇場です。マダム・バタフライと言えば、イタリアの誇る音楽家プッチーニの作品です。プッチーニはピサからフィレンツエへの道の途中にあるルッカという街の生まれです。イタリアの誇る音楽家の歌劇がナポリで演じられるってことですね。イタリア人の誇りかと思います。
ナポリにあるヌオーヴォ城 新しい城 です、ナポリ王「カルロⅠ世により1279~1282年に建設された。それに対して古い城、ナポリにはたくさんの古い城がありました
今夜の夕食はトマト、モッツァレラチーズ、オリーブオイルのカプレーゼです。さすが本場、日本で大分で食べたのとは違いました。やっぱり空気感がまずは違う、おいしかったです。
そして待望のピッツア・マルガリータ、
トマトの赤、モッツァレッラチーズの白、バジリコ(バジル)の緑、でイタリア国旗の色です。マルゲリータ王妃が気に入ったことが由来と言われている。パリパリのピッツアもおいしいですが、私はどちらかというと、この厚ぼったいのが好き、だから太ります。これはナポリピッツァの特徴のひとつのコルニチョーネというそうでピザの縁の部分のことで、ナポリピッツァでは厚く、空気が熱で膨張して風船のように膨らむのが特徴、。本当においしかったです。
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