2011年11月8-9日:島原へ
明朝から島原で用事があります、前日から行かないと、間に合わないので、少しゆっくりと家を出ました。
大分駅開業100年ということで、大分駅では「百年史」の掲示があり、とても興味深く見ることが出来ました。
私たちが転勤で来た頃の大分駅はどんなだったのかしら?とっても興味があります。

昭和33年に今の駅舎が出来た、そして、昭和40年国体が開かれた。大きな競技場の傍をタクシーで走り、国体が行われたのですよ、と、案内の方が話してくださったのを覚えています。
これは今の大分駅前です。大きなヤシの木がたくさん並んでいます。初めてこの大分駅前広場に立った時、本当に九州は南国だと思ったものです。
大分からかもめ編成の白いソニックに乗ります。
列車に乗ると、まず目に入るのは、車両ごとに異なる機能やデザインのコモンスペースです。アートギャラリーになっています。長崎行きにも活用される列車なので、「おくんち」「蛇踊り」など、ゆかりの言葉が書かれています。
そして、私の今日の目的地の「島原の子守唄」も書かれています。とても好きな子守唄です。
とってもお天気の良い日で、海も空も美しいです。
博多駅では大急ぎの乗り換えです。走って隣のホームへ駆けつけました、今度乗る電車も同じ白いかもめでした。
博多を出て、鳥栖駅です、ここはよく友の会で活用する「サンメッセ鳥栖」がすぐ近くに見えました。
続いて佐賀駅を過ぎてまもなく、嘉瀬川河川敷が見えます。アジア最大級を誇る熱気球の国際的なフェスティバル(競技大会)佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」の会場あとです。
穏やかな有明海、のりひび(養殖ノリを付着し、成長させる道具、昔は木や竹ヒビが使われ、現在は網ヒビが主流)の竹がたくさん並んでいます。

有明海沿岸の三県(福岡、佐賀、熊本県)で日本の生産量の40%強を占めています。
長崎行きのかもめですが、私は諌早でおりました。ここからは、島原鉄道に乗ります。黄色の可愛い電車です。 
 
左上の赤丸が諌早、そして、有明海に沿って黄色い電車が走ります。
私は終点の少し手前の島原駅でおりました。
車窓からは、島原半島の眉山や、雲仙普賢岳の噴火で出来た平成新山などが眺められたり、有明海の美しい海岸線が続きます。
急行1時間半ほどの電車の旅でした。島原駅に着きました。赤ちゃんをあやす、可愛い子守さんが出迎えてくれました。
 
駅のすぐそばの可愛いホテルを予約していました。
廊下の窓から島原城が見えます。
既に夕方ですが、早速、歩いてお城に行ってみました。
島原城(別名森岳城)、松倉重政が1618年に築城着手し、7年余りの歳月をかけて完成した城です。天守閣は五層から成り、キリシタン資料館として島原の乱にまつわる多くの資料を展示しています。

また南有馬町出身の芸術家・故北村西望氏の作品を展示する西望館もあり、前庭には、大きな彫像がたくさん並んでいます。これは天草四郎像です。

フランシスコ・ザビエルが大分にも上陸したこと、また大分の大名が大友宗麟キリシタン大名だったというこもあり、大分に住むようになってから、隠れキリシタンのことなどが気になり始めました。島原、平戸、生月島など、訪ねて行ったこともあり、今回もたくさんの展示を見ることが出来ました。
武家屋敷の保存地区を歩きました。全長406.8m、幅5.6mの町並みで道路の中央にはきれいな水の流れる水路になっています。流れる湧水は生活用水として利用しています。公開されているお屋敷もあるそうですが時間が遅く、入ることは出来ませんでした。
タクシーの運転手さんに教えていただいた島原城前の「姫松屋」で島原名物具雑煮をいただきます!
具雑煮は寛永14年(1637年)の島原の乱の時、一揆軍の総大将であった天草四郎が、約37000人の信徒たちと籠城した際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊き、栄養をとりながら約3ヶ月も戦ったといわれたことに由来しています。
具材は、山芋、ゴボウ、レンコン、白菜、椎茸、鶏肉、蒲鉾、焼きあなご、卵焼き、春菊、もち等10数種類の具がふんだんに使われます。このお店は13種類入っていると言ってました。とってもお出汁もおいしかったです。
ゆっくりと食事をし、ライトアップされた島原城を見ながら、ホテルへ帰ってきました。
11月9日

今日も良い天気になりました。朝食後、散歩に出ました。島原城と反対にある「鯉の泳ぐ街並み(「鯉の泳ぐまち」と呼ばれる新町は、水路が張巡らされており、澄んだ湧水を活かして錦鯉を放流し、全国的に知られるようになりました。)を見に行きました。
冷たいきれいな水が流れています、その中を緋鯉、真鯉が泳いでいます。
朝早くからたくさんの観光客の皆さんが鯉の泳ぐ街を散策されています。後ろに見えるお屋敷は一般公開されている水屋敷です。明治5年に建築されたお屋敷で庭の池は毎秒50リットルの水が沸き出ています。
商店街の入口にも、「島原の子守唄」の像がありました。 
帰りは、島原から諌早まで友の会のお友達が乗せて下さいました、普賢岳噴火の時の様子やその後のことなど伺ったり、また、ご家族のことなど楽しいお話も一杯しながら、諌早で下ろしていただきました。

またかもめ、ソニックと乗り継いで無事に帰宅しました。

かもめの車窓から諫早湾の干拓事業の水門が遠くに見えました。 
JR九州の「旅のライブ情報誌Please」をパラパラと見ていたら、こんな記事がありました。昨日、島原城で見てきた展示物や銅像などを思い出しました。

天草四郎をたずねて”天草・島原の乱 123日の神の子”
寛永14年(1637年)10月に勃発した天草・島原の乱 それより少し前一帯には天草四郎という奇跡を起こす少年の噂が広まった。総大将・四郎の実像とは?このように書かれています。(文・船木麻由)

「天草キリシタン館」初代館長・亀井勇氏(彫刻家)による四郎像・・・・天草キリシタン館の前にその凛々しい姿で立っている。
(本誌より)
 


この次は、ゆっくりと、訪れたい島原です。
次回は天草四郎たちが立て篭った原城にも是非、行ってみたいと思います。