韓国の歴史 | |
その23、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その1 | |
若き日のタムドック王を演じるヨンジュンさんに会うことが出来ました。長いマントを翻し、もう身も心も王になり、撮影に向かうタムドク王、演じ終えて足取りも軽く戻って来られたヨンジュンさん。やはり素敵でした・・・・少しずつタムドック王の写真が出てきていますね。鎧を身に着けた姿、そして刀を構えた姿(刀といっても、日本刀とはまたちょっと違う刀に魅せられます)庶民の着物を着た姿、王と言えどもそう単純に王になったのではないことが偲ばれます。傷を負い村人に助けられ民家で手当てを受けた時に着せられた着物のようですね。その民家のある集落として撮影地に選ばれた所に行くことが出来たんです。深い深い山の中、青い空の下にその集落はひっそりとありました。村の若者が馬にのって山を駆けていました。そこへ敵が襲ってくる、手当てを受けたばかりのタムドックがまた戦う、そんな場面の撮影だと聞かされました。そうして王になっていったタムドック。韓国の歴史上一番広い領土を誇った高句麗の王、しかしその高句麗もやがて滅ぶ時がきました。 | |
解説はコリョ大学歴史教育学科ソ・ミンギョ教授 広い満州平野を舞台に韓国の歴史上一番広い領土を誇った高句麗、檀君の古朝鮮を継承したという認識を持って、独自の文化を発展させた高句麗。その輝かしき700年間にわたった王朝も結局は歴史からその姿を消してしまうのです。東北の強力な古代国家だった高句麗は、なぜ、そしてどのようにして滅びたのでしょうか。 今も中国の各地域で公演されている京劇、その中でも人気の高い京劇の一つが高句麗の将軍淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が登場するものです。その劇では彼と唐の太宗との激戦をドラマチックに描いています。この京劇は1960年代に政治的な理由で上演禁止になりましたが淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)と唐の太宗は中国の地方の劇では必ず登場する歴史上の人物です。 彼らの実際の決戦は645年に始まりました。当時の東アジアの状況はどうだったのでしょうか。高句麗研究会理事:ユン・ミョンチョル教授の話です「隋は高句麗との戦争で国力が弱くなり結局は内部の乱で倒れてしまいます。その後唐が登場しましたが初期には唐は国内の安定を計り次第に周辺の異民族の征服にかかります。高句麗は唐にとって最後に征服する対象に考えられていたのでしょう。その時までは融和的な関係を結んでいました」 隋の失敗を知っている唐としては、高句麗への攻撃に慎重な姿勢を取りました。戦争の準備にも時間が必要でした。高句麗としても唐に対して融和的な立場を取り、使節を派遣したり、隋との戦争の時の捕虜も唐に返していました。しかし高句麗の内部では唐との外交を巡って意見の違いがでていました。 高句麗の国王側の勢力は唐との宥和を主張する穏健派であり、これに対して淵蓋蘇文をはじめとする一部の貴族は強硬派でした。 やがて唐は周辺の異民族を次々に服属させて、残っているのは高句麗ぐらいになりました。唐はスパイを送り込んで、高句麗の地形などの情報を収集しました。また徐々に高句麗に外交的な圧迫を加えてきたのです。 唐の脅威が露骨になってくると高句麗は遼東地方に防御のために千里の長城を築きます。石で築いたこの長城は631年に着工し16年かかって完成しました。この千里の長城の工事を監督したのが淵蓋蘇文でした。 高句麗では外交政策をめぐる穏健派と強硬派との対立が強まりました。そしてまず穏健派が強硬派のリーダーである淵蓋蘇文を除去する計画をたてますが、むしろ淵蓋蘇文の方が先手を打ちます。 穏健派の陰謀に気づいた淵蓋蘇文は自宅で宴会を開き、そこに国王側の大臣らを招待しました。彼はその宴会場でクーデターを起こし、大臣らを殺した後、宮中に入り国王をも殺しました。 淵蓋蘇文は国王の甥を新しい王に推挙し、自分はナンバー2として権力を両手に握りました。淵蓋蘇文は高句麗の人事権と軍事権を掌握し、国王は名ばかりの存在になってしまいました。彼は660年に死ぬまで、24年間も高句麗の最高権力者としての地位を維持しました。 しかし淵蓋蘇文に関する記録はほとんどありません。中国の歴史書や「三国史記」では、彼は残酷な独裁者として記されています。しかし朝鮮後期の実学者らは、淵蓋蘇文は唐に対して高句麗の自主性を唱えた韓国歴史上の英雄であると高く評価しています。 ユン・ミョンチョル教授「記録では独裁者です、高句麗滅亡の原因の一つが貴族権力の争いという指摘もあります。しかし冷静に考えますと当時、高句麗と唐の対立は避けられないものでした。ですからむしろ高句麗の国力を一つにする指導者が必要だったのです。実際に淵蓋蘇文が死ぬまでは高句麗は唐に負けたことがありませんでした。」 一方、高句麗で貴族によるクーデターが成功したというニュースは、唐の太宗に高句麗征伐の名分を与えました。国王を殺した淵蓋蘇文を罰するという名分でした。唐による高句麗の侵略には新羅の役割も大きかったのです。 当時、高句麗と百済は同盟を結んで新羅を圧迫していました。新羅は孤立状態でありしかも唐との交通路である漢江流域を百済に奪われていたので新羅は慌てて唐に高句麗征伐を要請したのです。 唐としては高句麗征伐はどうしても必要だという判断を下していました。そして漢半島の三国は互いに争っています。唐は新羅を利用して高句麗征伐に動きました。645年、ついに唐の高句麗征伐が始まります。」 唐の太宗は500隻の軍艦と4万3000人の先発隊を高句麗に送り込みます。一年の準備を経て戦争を起こしたのでした。 ユン・ミョンチョル教授の話です、「唐は髄の失敗の教訓を知っていました。唐の侵略戦争に参加したのは隋の高句麗侵略に参加した人たちでした、唐の太宗は隋のように大群を率いての全面戦争ではなく、少数の精鋭兵力を率いて侵略を行ったのです」 唐軍は遼東地域で2回の戦闘を経て、やっと遼東城にたどり着くことができました。ユン・ミョンチョル教授「遼東城は高句麗が隋との戦争の時、隋の煬帝の軍隊を破り勝利を得た場所です。唐としては復讐の為にも必ずこの遼東城を攻撃して占領する必要性がありました。」 唐軍は12日間も続いて遼東城を攻撃しましたが、高句麗軍の激しい抵抗のため、なかなか占領することができませんでした。しかし風を利用して火を起こす火攻めの末、ついに19日目に火の海になった遼東城を占領することができました。記録によると戦死した兵士が一万人、捕虜が一万人、また四万人の農民が捕虜になって唐に連れ去られ食料50万石も奪われました。 遼東城の戦闘で高句麗は初めての惨敗を喫したのでした。唐の太宗が率いる軍隊は続いて安市城(アンシソン)に向って移動します。 |
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韓国の歴史上、一番広大な領土を誇ったという高句麗もついに滅びる時がきました。満ちたるものは欠ける習い、と言いますが、壊れるのは早いですね。こんな時、もしも広開土王が政治を執っていたら・・・歴史には~もしも~は無いといいますが、どうしても言いたくなってしまいます。 広開土大王(カンゲドテウァン):374~412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391~412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。 |
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その22、三国の統一戦争 : 百済の滅亡 その4 | その24、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その2 |