韓国の歴史 | |
その22、三国の統一戦争:百済の滅亡、その4 | |
若き日のタムドック王を演じるヨンジュンさんに会うことが出来ました。長いマントを翻し、もう身も心も王になり、撮影に向かうタムドク王、演じ終えて足取りも軽く戻って来られたヨンジュンさん。やはり素敵でした・・・・広い満州平野を舞台に韓国の歴史上一番広い領土を誇った高句麗、檀君の古朝鮮を継承したという認識を持って、独自の文化を発展させた高句麗。その輝かしき700年間の王朝の中でも最高の王と慕われたタムトクこと好太王・広開土王の活躍のドラマ化、本当に楽しみです。 しかし、史実は非情です。その高句麗もやがて滅びます。そのお話は次回に譲るとして先ずは百済滅亡の様子です。 |
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660年7月、百済の義慈王は唐と新羅の連合軍に降伏し、76万世帯の農民や200以上の城を連合軍に差し出しました。百済700年間の歴史に終止符が打たれた瞬間でした。百済の義慈王と皇太子が捕虜になり唐に連れ去られた後の百済に残された民はどうなったのでしょうか。 国立扶余博物館には、百済王室の象徴である金と銅で作られた大香炉が保管されています。高さ62cm重さ11.8kgにもなる大型の香炉です。その香炉には博士や武士など17人の人物像から鳳凰、龍、虎などの42匹の動物も刻まれています。しかも、植物や岩、山道 滝や湖などの自然の景色も華麗に描かれています。姿全体は満開の蓮の花の形でその蓮の花を一匹の龍が支えているような形になっています。東アジア最大の傑作品ともいえるこの金の大香炉は1993年に扶余で発見されました。それがなんと王陵から発掘されたのではなく、使わない井戸の底の泥の中から出てきたのでした。薄い板で隠されているような状態で発見されました。それは誰かが急いで隠したものと思われます。 国立扶余博物館ソ・オソン館長の話です。「百済の金の大香炉は王室の最高の宝物だったと考えられます、このような宝物が井戸の底の泥の中から発見されました。それは安全な保管場所を探す余裕がぜんぜんなかった百済の最後の滅亡当時の急な状況を物語っているといえるでしょう。百済の滅亡は誰にも予想できないほど、急に訪れました。わずか15日間の戦争を経てあっという間に滅びてしまったのでした。」 唐に連れ去られた義慈王は1ヶ月もたたないうちにその一生を終えました。百済の降伏の後、すぐに百済復興運動が始まります。地方から起きた復興運動は、次第に勢いを増して熊津、今の公州を占領し、都であるサビ城、つまり扶余にまで進出するようになりました。地方の城は復興軍に占領されていて、残った兵士や農民らも復興運動を支援しました。 661年、復興軍は統一組織を作ります。義慈王の従兄弟に当たる福信は、僧侶であるトチムと共に復興運動をリードします。トチムと福信は共に唐の軍隊と戦って、今州、扶余を除く地方のほとんどの地域を回復し百済の復興運動 をリードしました。日本書紀によると福信は失った国を回復した百済復興運動の英雄と評価されています。福信は日本の大和政権に使いを出して、当時大和に滞在していた義慈王の息子である扶余豊フヨプンの帰国を願い出ます。扶余豊は日本では扶余豊璋、または百済君ともいわれていました。大和の王室で政策について意見を述べる役割をしていたと考えられます。 百済から日本へ渡った人々は本や仏教などの先進文物を持って行きます。一方日本からは百済へ軍事援助がなされました。日本からの軍事支援を受けて百済に帰ってきた扶余豊は、福信やトチムら復興軍によって新しい王に推挙されました。 しかしその頃、百済の復興運動には暗い影がかかり始めました。福信は自分の命令を聞かないトリムを処刑し、扶余豊さえ消そうとしたので、これを知った扶余豊が先に福信を殺してしまったのでした。こうした内紛に気づいた新羅と唐の連合軍は百済復興軍に全面的な攻撃を加えます。 しかし百済復興軍も退く意志はありませんでした。大和の支援軍が海を渡って百江ヒャッコ、今の錦江クンガンの入り口に到着したのでした。3万にもなる大規模な支援軍でした。日本がそれほどの支援軍を送ったのは理由があったからです。 百済が降伏したことで大和の朝廷はかなり緊張します。なぜならば百済の没落は、その次の唐の攻撃の矛先が日本列島に向ってくるかもしれないという危機感をあおったからです。錦江の入り口で大和と百済の連合軍と、新羅と唐の連合軍との間で激しい戦争が行われました。有名な白村江ハクスキノエの戦いです。 しかし大和と百済の連合軍は出兵してから15日で、ほとんど全滅してしまいました。当時のことを「三国史記」には次のように記しています。“4回戦ってすべて勝ち、船400隻を燃やした。炎と煙が天を覆って、海が赤い色に変わった” 戦争に惨敗した扶余豊は高句麗に亡命します。リーダーをなくした復興軍は力を失って負けてしまいました。3年間にわたる百済の復興運動は失敗しました。それは何よりもリーダーたちの内紛にその最大の原因がありました。それは百済の滅亡の原因と同じです。 百済の復興運動の失敗によって百済の指導層の多くが海を渡って日本へ移りました。 大阪の難波宮事務所の関山副所長です。「日本書紀に664年白村江ハクスキノエで敗れた百済の王族を難波に住 ませたという記録が出てきます。亡命してきた百済の王族がこの場所に住んでいたということをはっきりと示したものです。」 今も関西には百済という名のつく寺や、神社、名字などが残っています。多分渡来した百済の王族らが日本で名乗った名字だったのでしょう。大和朝廷は彼らを優遇しました。その時、海を渡った百済の指導者らは、日本にいろいろな科学技術、寺や山城の建築方法などの文化と知識を伝えました。 百済からの渡来人たちが日本の律令国家を形成する過程で大きな役割を果たしました。百済からの人と先進技術の伝播は全般的に日本の文化水準を高めたでしょう。百済文化の真髄は韓国の扶余や公州ではなくむしろ日本に残っているという話は以上のような渡来系が伝えた文化のあとが日本に残っているからでしょう。 百済の人々は国の滅亡と共に亡くなったのではなく、希望を持って海を渡り日本で百済の文化の華を咲かせて日本文化に大きな影響を与えたのでした。 |
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日本に多大な影響を与えた百済からの渡来人たち。彼らのもたらした鉄の技術、土木、建築、馬具や金属加工、高級な絹織物の技術など、日本の文化へと溶け込んで発展していきました。また百済王によって仏教も伝えられ、それらのことは今の日本にも大きな影響を及ぼしています。漢字も伝えられました。そこから平かなが生まれ、今こうして文章が書けることなど、不思議な縁を感じます。 広開土大王(カンゲドテウァン):374~412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391~412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。 |
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その21、三国の統一戦争 : 百済の滅亡 その3 | その23、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その1 |