韓国の歴史
その16、三国時代の生活② 高句麗、その一山城と味噌の文化
韓国も日本も思いがけなくも長引いた大雨の季節が終わり、一年で一番暑い夏・8月になっています。お変わりなくお元気ですか?私も夏休み、静かな時間をたくさん頂いて、ホームページの整理をしたり、ヨンジュンさま写真を探したりとPCの前で過ごす時間が長いです。9月の初めにはいよいよ撮影陣がチェジュドに入るとのニュースに待ちに待った撮影もいよいよと期待に胸が膨らみます。ヨンジュンさま演じられるタムトック王が活躍した高句麗はどんな生活をしていた時代なのでしょうか。ご一緒にどうぞ!
高句麗は韓国の歴史上、一番広い領土を持った国でしかも700年間も続きいろいろな戦争を経験しました。しかし高句麗は軍事的な面だけではなく多様な文化を持つ国でした。今回と次回ではあまり知られていない高句麗の人々の文化や生活を見てみましょう。
今の中国東北部遼寧省の奉天(ポンチョンシ)市にある鳳凰山城は、城壁の長さは15キロ、高さが6mから8mのこの城は、高句麗の中国大陸側の関門であり、中国の勢力が高句麗を掌握するにはまずこの関門を突破する必要がありました。中国を統一した唐の太宗は、この要塞の攻略に失敗し多くの兵を失って退却しました。
高句麗は多くの城を築いた国として有名です。現在確認されているだけで、城の数は300を超えています。1300年から1500年前の城ですが、今もその形態が良く残っているほどでそれほど頑丈に造られています。城の数も多いですが何よりもその技術が優れていてしかも地形を活用したいろいろな様式で築きました。大規模な戦争を数え切れないほど経験した高句麗人にとって城は他にはない自分たちの保護者でした。

高句麗という国名も城とかかわっていると言われています。クルというのは城を意味します。それに高いというコウをつけたのがコクリョウ高句麗の国名になりました。高句麗は城と深くかかわっていた国でした。
韓国の歴史上、城を築き始めたのは青銅器時代と推定されます。集団同士の争いが激しくなると人々は高い位置に城を造って防御のための壁を作り始めたのです。最初は木で作っていたのですが、古朝鮮時代は土の土城になり、高句麗時代には数万の石で築き上げた丈夫な石の城に変わりました。山城は戦争の時の住民の避難所であり、外国の侵略に立ち向かう高句麗人の要塞でもありました。
高句麗の城は防御の機能をする山城と都市の機能を持つ平野の城という二重の構造を持っていました。平和な時の農民たちは、城の外側にある村落で生活をしていました。このような村落はすでに紀元前から鴨緑江中流のあたりに出来るようになり平野に城ができ、城の内部が都市、外部が農村という区別ができるようになったのでした。
農村では土を少し掘って家を建てていました。土からの熱を利用した保温効果を期待したからでしょう。高句麗の村落の家屋は寒かったのです。標高1000メートル以上の所に村を作った高句麗には、年間平均気温が5-7度の所も多かったので、冬はものすごく寒かったのでしょう。それで高句麗人たちは室内暖房、即ち床の下に煙を這わせて床を温める(床暖房方式)オンドルを作り出したと考えられます。 
高句麗の文化遺産の一つがオンドルの発展です。初期には部屋の一部だけを温める片オンドルの方式でした。高句麗という地域が韓半島でも一番寒い地域だったのでオンドルの発展がすすみました。部分的なオンドルというのは室内の一部では椅子を用いた生活方式もあったと考えられます。
古墳壁画には主人とお客さんが高い椅子に座っている様子や夫婦が椅子に座っている絵が描かれています。室内の一部にはオンドルがあり、他の部分は床がレンガになっていたと見られます。そのレンガの床は冷たいので椅子や板で造った座れる床を作ったのでしょう。昼の日常生活は椅子を使い、寝る時はオンドルで寝るという生活方式だったと思われます。このように高句麗ではオンドル文化が非常に発達していたのです。
すると高句麗の人はオンドルを用いた家で何をたべていたのでしょう。
高句麗の安岳(アナク)3号古墳の壁画では、台所の隣に肉を保管する場所が描いてあります。その中は肉で一杯です。古墳の中に残されていた記録によると、牛や羊の肉が一杯あって食べきれない程であったといいます。高句麗人が狩を好んだことと関係があるのでしょう。
特に高句麗人が好んだ肉の料理は肉を重ねた串焼きでした。高句麗の肉串焼きの味は中国にまで知られていたといいます。その味は朝鮮時代の宮中の「肉の重ね焼き」として発展し現在にまで伝えられています。

一方、高句麗人の味噌は有名です。韓国の味噌文化の始まりは高句麗だったと考えられます。高句麗の本拠地は今の中国東北部です。この地方は豆の産地で、その種類は150種類以上だそうです。従って自然に豆を用いた料理を作るようになったのでしょう。ユンソクチャ教授の説明です。 初めは豆を茹で その上に塩をまいて陽の当たらない部屋においておくと水分が出てきてしょうゆも味噌も出来たのでしょう。高句麗時代には味噌と醤油が一緒になった混用の味噌を食べていたと思われます。中国の記録にも高句麗の味噌の話が出てきます。
また魚の塩辛も作っていました。海老やシラスの塩辛も食べていたと思われます。当時、塩はかなり高い値段のものでしたが、その何倍もしょっぱい塩辛などを作る高句麗人の料理文化は中国でも有名だったのです。こうした発酵食品はいまでも韓国人の食卓にはなくてはならない料理になっています。肉の串焼きや、いろんな塩辛などの料理が食卓に並べられます。しかし、高句麗の料理文化の特徴は同じ食卓で一つのチゲなどを囲んで一緒に食べるのではなく、それぞれ別々に一人用の食卓で一人分の料理を食べていたということです。
高句麗の遺跡からは米の炭化物などが発見されていますが、値が高い米食は貴族のもので、一般庶民はキビや粟が主食だったのでしょう。
また借金のため奴隷になる住民も出てきたのでそれを救済するための福祉制度のようなものもありました。それが信頼法という法律です。この法律は春先に穀物が足りなくなるので、国が一般の民に穀物を貸して、稲の刈り入れの終わる秋に返済させるという方法です。
人々の最小限の生活力の確保や農業が出来るようにしたのでした。このような制度は統一新羅や高麗、朝鮮にも伝えられ韓国の歴史の伝統になりました。一般庶民の生活を支える基盤になったのです。

外部からの侵略を防ぐために城を築き、寒い自然環境を乗り越えるためにオンドル文化を作り出し、また発酵食品も開発した高句麗。こうした高句麗人の住居や食生活は現在の韓国文化の中にもその痕跡を見ることできます。
今回の歴史は書いていてとてもうれしくなりました。韓国のオンドル、肉の重ね焼き(チャングムもきっと作ったでしょうね)、発酵食品文化、一人用の食卓で食べる、などなど、とても具体的に生活が見えてきて、そこにはヨンジュンさん演じるタムトック王や、その重臣たちがイキイキと動いているさまが私には見えたのです。高句麗はとても寒い地方だったんですね。きっと着物は寒さを守るためにとても重厚に造られていたでしょう。しかし、狩を好み、幾多の戦争もしてきた高句麗の王ですから、暖かいと同時に機能美の溢れた衣装だと思います。本当に楽しみになりました。そして、現在の韓国にも色濃く影響を留めているという高句麗文化と思うと本当に今の韓国そしてヨンジュン様演じられる高句麗王朝にも大変な親しみを感じてしまいます。また、高句麗軍が強かったということも、民を大切に思う王がいたから、軍も強かったんだと納得です。ああ、韓国の歴史、次がまた知りたくなりました。(本当は太王四神記が早く見たいということなんですけどね)
その14・高句麗の乙支文徳(ウイチムンドク)将軍と撒水(サルス)での戦い 三国時代の生活③ 高句麗、その二 鉄が歴史を動かした