韓国の歴史
その14・高句麗の乙支文徳(ウイチムンドク)将軍と撒水(サルス)での戦い
たまにいろんな情報が行きかいますが、なかなかヨンジュン様自身のドラマの撮影が始まりませんね、それとも?知らないどこかで既に始まっているのでしょうか?まあそれならそれでも良いです。きっと私たちに伝えて良いときが来たら、きちんと伝えてくださると信じています。最近に見た姿、黒い髪の毛が長くなり、あごを引いて立たれた姿はもう、広開土王そのものでしたね。高句麗の時代の衣装を見に付け、馬上で弓を構えるお姿を想像しながら、彼の時代に強力になったという高句麗のその後を訪ねることにしましょう。
今の北韓の平安北道南部にある淸川江(チョンチョンガン)韓半島北部の西海岸に流れ込むこの川は今から約1400年前、中国を統一した隋帝国と高句麗が国の命運を賭けて戦った‘撒水(サルス)の戦い’の歴史的な現場です。
隋が中国の統一に動員した兵力は50万、しかし、高句麗を征伐するために動員した兵隊の数は120万人、まさに隋はこの戦争に国の力量の全てを投入したのでした。
なぜ、このような大規模な戦争が起こったのでしょうか。6世紀末から7世紀初めごろ東アジアの実情は急変していました。高句麗は広開土大王長寿王(ヨンジュンさんのことですよ)の時代を経て東北アジアに独自の勢力を誇る強い国家として発展し経済力も豊かでした。水準の高い古墳壁画、天文、建築など、中国も驚くほどの文明を作り出しました。
589年中国は永い分裂の時代に終わりを告げ隋により統一されました。新興勢力の隋は高句麗が帝国の安定を脅かす危険な国と認識したのでしょう、隋帝国は高句麗を中国の支配下に入れ、東アジアを一つの世界にしようとしたのですが高句麗はそれを拒んで衝突を起こし、これが戦争になったといえます。
高句麗と髄の対立は598年、高句麗の先制攻撃で始まりました。
高句麗と隋は周辺民族の支配権を巡って対立し、隋は高句麗が隋に恭順しないと戦争を起こすと警告しますが、逆に高句麗は強攻策に出て、598年遼西地方に先制攻撃を加えました。隋の文帝が30万の大軍で反撃を試みたのですが、夏の長雨(梅雨)や伝染病の発生のため兵を引かざるを得ませんでした。その後、隋の2代目の皇帝、陽帝は皇帝になってすぐ高句麗征伐戦争の準備を始めます。高い城を攻撃できるはしごなど、当時としては先端の武器や500隻以上の船も建造しました。

612年、いよいよ隋の陽帝が113万という前代未聞の水軍と陸軍を率いて高句麗征伐のために出征します。隋の軍隊が全部出発するのに40日もの日数が掛かりました。その軍隊の先頭から最後までの距離が430キロにも達したと言われています。
この戦いでは隋の軍隊は3つ:陽帝が指揮する第一軍と第二軍、そして水軍に分けられました。水軍は山東半島から海を渡り、ピョンヤンの入り口である大同江に上陸しました、当時隋の陽帝はこれほどの兵を動員すれば簡単に高句麗の征伐に成功するだろうと考えました。しかし、高句麗の遼東の要塞は攻めても攻めても落ちなかったのです。何ヵ月かけても落ちない遼東城、焦った陽帝は遼東城はほっておいて30万の第二軍を迂回させ水軍だけではなかなか落ちない平壌城を攻略しようとしました。その第二軍が鴨綠江に着いた時です。鴨綠江で隋の軍隊と対置していた高句麗軍の司令官である乙支文徳(ウイチムンドク)将軍は寒さと食料の運搬に悩まされていた隋の軍隊の弱点を知り、それを利用するために戦闘を長引かせる作戦を取ったのです。乙支文徳将軍はわざと小さな戦いで負けながら、後退する道中の井戸を全部壊して、人も避難させて食料も残さないようにしたのです。隋の軍隊は食料不足や水不足で士気が落ちていきました。焦って早めに戦闘を終わらせようとする隋の軍隊は、乙支文徳将軍の作戦にはまってしまったのでした。
中国の歴史書である「隋書」によると、隋の軍隊は一日に7回戦って、7回とも勝利を収めるほど勝利に泥酔して、高句麗の内陸に深く入りすぎたのでした。乙支文徳将軍は隋の司令官を嘲笑う小唄を作って送ったといわれます。
『神妙な戦略は天の理を悟り、奇妙な作戦は地の理に適っている、隋軍は既に戦いの功績が大きいので満足をし、もうこの辺で止めた方がいいのではないですかな』
小さな勝利に鼻が高かった隋の軍をあざ笑う小唄に危険を感じた隋の第二軍は撒水を渡って兵を引こうとしました。しかし前もって撒水の上流にダムを作って水を溜めて待っていた高句麗軍は、隋軍が撒水を渡ろうと通りがかったその時、上流のダムを一気に破ったのでした。すでに食料不足や水不足で弱っていた隋の軍隊は撒水の急流にまき込まれて全滅してしまいました。中国の記録にはその敗北を次のように記しています。“遼東を迂回した兵隊は30万5千人。しかし帰ってきた兵士はわずか2千7百人だけだった”
この戦争では乙支文徳将軍が隋の軍隊の弱点を把握してこれを内陸のほうに誘い込み、戦争を長引かせて敵の士気を喪失させたこと、そして後退する敵軍に対してサルスの地理的な利点を活用して勝利を収めたことが乙支文徳将軍の作戦の優れたことを証明しています。

この撒水の戦いでの勝利の功労者である乙支文徳将軍という人物についてはあまり知られていません。ただ「三国史記」には“隋の陽帝が遼東の戦いにそれほどの大軍を送ったのは前例のないことだ。国を守り敵の軍を撃滅させたのは文徳一人の力であった”と記しています。乙支文徳将軍は三国の歴史上でも高く評価される人物なのです。
隋帝国は高句麗とは比べ物にならない位大きな国でした。高句麗がこれほどの大国との戦いに勝つことの出来た理由は何だったのでしょうか。
高句麗は隋が中国を統一する時からすでに中国からの侵略に備えていました。以前からの中国側の資料でも高句麗の戦闘能力が優れていたことがたびたび記されています。高句麗は隋帝国との戦いは避けられないとにらんでいたのでした。
高句麗は東アジアの大国としての自尊心を守るために戦争の準備を推進し、その結果、隋との戦争に自信感を持って臨んだのでした。隋は翌年の613年と614年にも高句麗を攻撃するのですが、ついに勝つことができませんでした。高句麗との絶えない戦いで国力を使いつくした隋は中国を統一してからわずか30年余りで歴史の舞台からその姿が消えてしまったのでした。
中国を統一した隋帝国が危機感を感じて統合しようとした国、しかしその挑戦を見事に打ち破った国・高句麗、東アジアの強国であった高句麗は独自の世界観と文明観を持って隋の5回にも及んだ侵略にも負けなかった強い国でした。この戦争での高句麗の勝利はその後の新羅、百済や当時の日本である大和に対する外交にも影響を及ぼし中国の唐と新羅とは一線を引いて高句麗、百済、大和の関係が親しくなる契機にもなったのです。
乙支文徳(ウイチムンドク)将軍の名は1946年ソウル中心部を東西に結ぶ広い道路の名につけられその下を走る地下鉄2号線のウイチロイク ウイチロサンガ ウイチロサガという駅名でも知られています。って書いてありましたが、この前のアンPDご結婚式旅行の時に頂いた「韓国の旅」という観光公社発行のガイドブックを開くと地下鉄路線図にありました、ありましたよ。その時に泊まったホテルが世宗ホテル、といってやはり有名な王様の名前、その前の広い道路は世宗路、歴史に名を残した王様や将軍を今も忘れない韓国ですね。高句麗が隋に勝てたのも、広開土王の業績が引き継がれていたからですね。ああ、やっぱり待たれるのは、「太王四神記」撮影関連情報ですね。
その13、高句麗の将軍‘馬鹿’温達(オンダル)と平岡(ピョンガン)姫 その15、三国時代の生活① 豊かな平野と博士の国、百済

広開土大王について
こうかいどおう, (374年 - 412年, 在位391年-412年)本名は談徳は4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗第19代国王。東部鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。中国や日本では好太王とも呼ぶ。また在位中、永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ぶ。
393年には平壌に9寺を創建して仏教を奨励した. 412年39歳で世を去った後、414年息子の長寿王が生前の功績を記録するために立てた陵碑(広開土王碑)が現在中華人民共和国吉林省通化集安市(旧、輯安県)に残っている。諡号は国岡上広開土境平安好太王である。
韓国の国産駆逐艦にも名前が使われている
  ○ DDH-971 広開土大王(クァンゲトデワン) (ROK Gwanggaeto the Great):1998年7月就役
  ○ DDH-972 乙支文徳(ウルチムンドック) (ROK Euljimundok):1999年6月就役
  ○ DDH-973 楊万春(ヤンマンチュン) (ROK Yangmanchoon):2000年6月就役