韓国の歴史
その13、高句麗の将軍‘馬鹿’温達(オンダル)と平岡(ピョンガン)姫
ヨンジュン様出演の数あるドラマの中で、私の大好きなドラマはと聞かれたら「冬のソナタ」は別格として一番好きなのは「愛の群像」と答えます。ジェホの短い、しかし、最後には輝かしい真実の愛を得た生涯の物語はこうして書いていても涙が出てきます。ジェホは妹のジェヨンを守るために厳しくも正しい道を選んで生きてきました。そのジェヨンが好きになった相手が、ジェホの唯一のチングのパク・ソックでした。チングとしては認めても、妹の婿としては絶対に認めないというジェホでしたが、こればっかりはいくら兄の言うことでも聞けないジェヨンでした。「私があなたのピョンガン姫になる、あなたはオンダル」という場面がありました。
私には?でしたが、韓国の人にはこれでよく分かる背景があったのですね。今日の「韓国の歴史」はその「‘馬鹿’温達(オンダル)と平岡(ピョンガン)姫 」の物語です。
(ちょっと前置きに力が入ってしまいました)
高句麗、百済、新羅の三国の領土拡張のための争いが激しかった時代の高句麗の平原王(ピョンガンオウ)の娘むこである温達(オンダル)将軍。人々から馬鹿扱いされていた身分の低い温達が姫と結婚して、歴史に名を残す有名な将軍になったという話は、本当に童話の世界に出てくるような美しくて悲しい物語りなのです。
温達は歴史上実際に存在した人物です。その人物の登場の背景やその死に方が非常にドラマチックなので物語のようになりました。温達が戦死した場所は館半島の中部です、したがってその地域を中心に温達の伝説が多く残っています。
「三国史記」には温達伝がありますが、そこには人々が彼を愚かな温達、即ち‘馬鹿’温達と呼んでいたと記されています。韓国の小学校教科書にも出てくる‘馬鹿’温達と平岡姫の話は韓国では有名な物語です。その話は西暦6世紀後半の高句麗25代の平原王(ピョンオンオウ)の時代にさかのぼります。
高句麗の平壌城の城壁の外の町に温達という人が住んでいました。目が見えない母親と二人暮らしで、人様に物乞いをするほど非常に貧しい生活でした。しかも若いのに腰が曲がっていて顔も決して美男子とは言えませんでした。人々はそのような温達をいつも‘馬鹿温達’と呼びながらあざ笑っていました。しかし彼は親孝行の真面目な人でした。そして心がきれいな青年でした。

一方、平原王には一人娘がいましたが、その人が平岡姫です。
平岡姫は幼い時から気が強くて泣き虫でした。王は泣き虫の姫をなだめる時、泣き続けたら馬鹿温達のお嫁にするぞとよく冗談を言いました。「姫はいつも泣いているな、そんなに泣いてばかりいるようでは馬鹿温達の嫁にしかなれないぞ」やがて平岡姫が16歳になり、平原王は姫を貴族の家に嫁がせようとしましたが、平岡姫は幼い時から聞かされた馬鹿温達の嫁になると言い張ります。「王様は私に温達の嫁になるしかないといつも言っていたのではありませんか」「王の言うことを聞けぬなら宮殿から出ていけ、お前の勝手にするがいい」激怒した王は姫を宮殿から追い出してしまいました。
宮殿から追い出された姫はまず温達の母に会います。目の見えないお母さんは良い香りのする平原姫の香りをかぎ、柔らかい手を触って言いました「あなたはまぎれもない高貴で若い女性です。あなたの様な方がうちの馬鹿温達の嫁になるとはとんでもないことです。どうかお帰りになって下さい。」「いいえ、私は絶対に温達様のお嫁さんになるのです。決心は変わりありません。これから温達様にあってお話します。」姫は温達が働いていた山の中まで歩いて行って彼にあい、ようやく彼の理解を得ます。

この話は考えて見ますと前近代の徹底した身分社会の元では到底ありえない話です。温達の母は大変驚いてこの話はなかったことにしましようといいますが、平岡姫は身分とは関係なく温達の嫁になるのが自分の願いだと言って、断らないようにとお願いします。
こうして温達の嫁になった平岡姫は自分の持ち物である宝石などを売って、家を買い、田んぼや畑を買い入れます。そしてある日、姫は温達に馬を買ってくるようにいいます。馬を買う時には、博労たちにだまされない様に必ず王宮で飼っていて病気になって外に出された馬を買って来るようになどと、注意を与えます。
平岡姫は温達に乗馬や弓など武芸を習わせます。平岡姫が温達を抜擢したのと同じように平岡姫が温達を将軍にするためにいろいろと仕込んだのです。当時の高句麗社会の男女の平等さがうかがえます。
高句麗では毎年3月3日、桃の節句に平壌の付近の楽浪の丘に集まり、みんなで狩をして、捕らえた動物を天と山と川に祭る風習が有りました。この日の行事には王をはじめ臣下や兵士らも参加します。武芸を習った温達も参加して一番多くの獲物を捕らえます。平原王は彼が馬鹿温達だと知って驚きます。温達は貴族より優れた武芸の実力で認められます。
しばらく後に中国の後周(=北周)の武帝が高句麗を攻撃してきた時、温達は高句麗軍を指揮して大きな勝利を収めます。平原王は大変喜んで、温達を正式に娘むこに迎え、‘大兄’という高い官職につけます。温達は優れた武芸と戦争での功労が認められ、身分の壁を越えて新しい政治勢力の代表になったのです。
実際に平原王の時代の政治的な状況は非常に複雑です。平原王の祖父の時代から貴族勢力の争いで王の権力が弱くなり、貴族の権力が強くなります。王はこうした状況から王の権力を強化するために新しい政治勢力を登用することに力を入れました、その結果、新しい政治勢力が生まれた可能性が高いのです。
平原王が死んで、嬰陽王(ヨンヤンオウ)が即位した590年。温達は高句麗の総司令官として新羅との戦いに臨みます。出征する前に韓半島の中部を奪還できなければ生きては帰らないという決死の覚悟を述べました。温達が決死の覚悟で奪還しようとした竹領(チュンヨン)などの中部地域は広開土大王、長寿王(チョウチュオウ)の時代に確保した高句麗の領土ですが、551年に高句麗は軍事的な要地であり、漢江流域に進出できる基地であったこの土地を新羅に奪われてしまいます。

当時高句麗としては南の方を安定させないと北の国境の安定に専念することができなかったのです。現在の漢江の下流から上流に亘る地域は韓半島の南北をつなぐ要地で、ここを奪われた高句麗としては南からの攻撃に深刻な危機感を感じざるを得ませんでした。だから再び奪還する必要があったのです。
590年、温達は南の国境での高句麗の危機を克服するために新羅軍との戦いに臨んだのでした。しかし温達はその戦いで矢に当たって戦死してしまうのです。 一般的に温達の話は伝説になりがちですが彼は高句麗の国難を克服しようと努力した人です。北の中国の北周の侵略を遼東地域で防ぎ、南の韓半島中部を新羅の攻撃から防御しようとしました。温達は北と南の国境で高句麗の領土を守るために重要な役割を果たした人です。
失った領土を回復しようと戦いに臨んだけれど温達山上で死んでしまった温達、その悲願を果たせなかったためなのか、彼の遺体を入れた棺桶が地面にくっついて動けなかったと言います。結局平原姫が迎えに来て「死ぬことは天の定めだからもう帰りましょう」と囁くとやっと棺桶を動かすことが出来たという話が伝えられています。
愛しい平原姫の悲しい囁きを聞いてからやっと棺桶を動かすことが出来たという話からは死んだ後でも高句麗の領土を守りたいという温達の強い意志が窺えます。その温達と平原姫の尊い恋の物語「馬鹿温達ではなく高句麗の戦争英雄であった温達将軍」は今も韓国の歴史の中で生きています。
なんと美しい悲しい温達将軍と平原姫の物語でしょうか、きっと韓国の子どもたちは、小さな頃からこのお話を家の人たちから聞かされてきているに違いありません。姫の悲しい囁きを聞いてやっと動いた温達将軍の棺桶、もう涙無しでは書けませんでした。何だか色濃い韓国ドラマの原点を見たような気がします。しかし、一方では、パク・ソックのあの顔が浮かんできて仕方ありませんけれどね。車椅子のジェホがジェヨンの赤ちゃんを抱いて頬擦りしてから、ソックと二人で話しますね。ソックがジェホの手の平に「パク・ジェホ」と書きます。その時からソックは私の中では温達将軍になりました。あ~あ、やっぱりジェホヤ~で終わりました。
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