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マイケル・ハウベンの訃報を知らされた時(7月5日)、あまりのことに大きな声を出してしまった私たちです。すぐには信じられませんでした。今もまだ本当には信じられていません。今も彼の無心な笑顔が私の脳裏には浮かんで来るのですから、 |
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我が家の書架には私たちの大切なものがたくさん置いてあります。その中にはマイケル・ハウベンに関する品物も大切に置いてあります。 |
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私たちの「インターネット取材」に関する写真を収めた1995年10月からのアルバムです。 ここにはマイケルの写真がたくさん並んでいます。
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マイケルとの出会いは、1995年11月24-25日に開かれた「別府湾会議」の会場でした。 | |
<ネティズン革命>と<地域情報化基盤(RII)>とテーマを設けたこの会議にメインゲストとして迎えられたのが彼・マイケルハウベンでした。 たくさんの出席者の中で彼は最年少のゲストスピーカーでした。 |
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全員の記念写真の中で彼はデビッド・ファーバー(ペンシルバニア大学教授・EFF/インターネット協会理事)キョン・ヒーユー(韓国)ハリー・ソール(スマートバレー公社社長)などと一緒に最前列で写っています。(敬称略) | |
私たちコアラ会員は、マイケル・ハウベンの参加する「別府湾会議」を盛り立てるためにいろいろ相談の結果、彼の提唱する「ネチズン」のロゴを作りました。キャップはスピーカーにワッペンは参加者にプレゼントしました。 | |
私たちはマイケル・ハウベンがゲストスピーカーに決まったと聞いた時、すぐに彼に歓迎のメールを出しました。 「大分県別府での会議に来て下さること、とてもうれしいです。会場でお待ちしています。」 |
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別府の会場で待っていましたら、私たちの息子と同じくらいの青年がやってきました。マイケル・ハウベンでした。早速、名刺の交換をしました。 | |
そして私にとプレゼントしてくれたのが、このかわいいお料理の本でした。「日本への最初の歓迎メールありがとう!」と書いてある、とってもうれしかったです。 | |
私のホームページを見て、料理やお菓子作りが好きだと思い選んでくれた本と知り、ますますうれしくなりました。 このチーズケーキなど作ってみましたがとてもおいしかったです。 |
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マイケル・ハウベンの「ネチズン」についての講演はとても分かりやすく、感動しました。 そんな彼を取材に訪れた西日本新聞社です。夫は取材に際して通訳のお手伝いをしました。 |
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取材の合間に見せる彼の笑顔はとても明るく好青年です。 1時間以上にわたる取材は新聞紙上に大きく載りました。 |
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ゲスト・スピーカーのハワード・ラインゴールド(作家)氏とも一緒に記念写真を写しました。 | |
会議の後は、参加者と地元大分のコアラ会員が一緒になって、カラオケを歌ったり楽しい時間を過ごしました。 | |
マイケルも日本の浴衣に半てん姿で、お酒を飲んで、カラオケのマイクを握り、日本流に楽しみました。 | |
カメラで皆さんを写していた私がちっとも写真に写っていないと言って送ってくれた優しいマイケルの写真です。 別府のホテルから写した別府湾の夕暮れです。 |
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別府湾会議に続いて神戸で開かれた「インターネット・ウエーブ'95」会議でマイケルは再び講演。私たちコアラ会員も参加しました。 ホームページを大きく印刷して掲げ、説明をしている私です。 |
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その年、マイケルから贈られたクリスマスカードです。別府で写した写真が嵌め込まれていました。 | |
次なる彼との出会いは、彼の住むニューヨークを訪問した時でした。彼の両親も一緒に楽しい二日間を過ごしました。その時に彼は著書にサインをしてプレゼントしてくれました。 | |
1998年5月25日とサインがあります。彼のアパートを訪問・イーストビレッジの古いアパートが珍しく、部屋のあちこちを探検したことが、ついこの間のことのような気がします。 | |
私たちの希望を入れてソーホー地区のレストランでの昼食を設定してくれたジェイ,マイケル,ロンダ・ハウベン一家。(左から) ハウベンの卒業したコロンビア大学の見学や、日本や世界のインターネット事情を熱っぽく語って下さった御両親。マイケルを失った悲しみはいかばかりか、同じく息子を幼くして亡くした私たちにとって察するにあまりある悲しみです。 心よりの冥福を祈ります。 |
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August 6, 2001. Mieko and Kenichi Nagano; Oita Japan |