2022年11月13日:大友宗麟の時代の様々な文化を研修
南蛮BVNGO交流館にて(南蛮文化研究会に参加)
ゆふいん音楽祭でいつも「中世音楽」の演奏を披露して下さっていた宮崎大学名誉教授の竹井成美先生が何年前からでしょうか。溝部学園のオープンカレッジをひらいてくださっていましたが、今年からは「南蛮文化研究会」として開催して下さっています。今年2回目は、国指定遺跡になっている「大友氏館跡庭園」を見学しながら、大友宗麟時代の様々な文化を研修するということで、楽しみに、南蛮交流館へやってきました。テラスからは館跡や発掘された庭園などが見渡せます。
少し早く来たので、その後、交流館の周りをあれこれと、見て回りました。すぐそばにJR日豊本線、豊肥線が走っています。なんと見上げていると、列車がやってきました。何だか普通と違うと思ったら、豪華列車「ななつ星」でした。急いでカメラカメラ、です。一度は乗ってみたいと思う列車です。 
 
 平安時代1172年に大友家初代能直誕生から、大友氏第22代、義統(よしむね)が秀吉から領地を取り上げられるまで大分で南蛮貿易など盛大な威力を 誇った大友氏でした。大友宗麟は21代目、1587年没

天正14年1586年島津軍の府内進行により廃絶したことをきっかけに大友館は長らく歴史上から忘れ去られ平成10年1998年に大規模な庭園跡が発見され平成13年には国の史跡に指定されました。 忘れられていた間に、遺跡上にJRの線路が敷かれていた。そこで、少し路線を変更して、今は、元の線路跡が、ウッドデッキとなって、整備されている。
 この木道がとても面白いと思った。うれしくて、一人で歩いてカメラを構えて楽しみました。廃線跡を楽しむ場所としては、ニューヨークにもあります。ハドソン川に面した鉄道跡にウッドデッキが延々続いていて、そこを散策、ハーブなどの繁みがあちこちに作ってあって、片側にはハドソン川、反対側は、昔のマンハッタンの建物が見える。素敵でした。
その後に息子たちも旅行で歩いてきたようです。とても面白くて楽しかった、穴場だったと報告がありました。昔は船で運んだ荷物をこの埠頭で貨物列車に積み替えて全米へ運んだり、NYの肉屋さんへお肉を運んだとか、今は、ディナークルーズの観光船が出迎えてくれて、夜のニューヨークを楽しみながら食事が出来る。良い思い出になってます。こちらもそのうちに「線路式ボードウォーク広場」として素敵な場所に生まれ変わるそうです。
思い出に浸ったり、大友氏の時代を思い起こしたりしていると、集合の時間に近くなりました。
交流館に戻ると、竹井先生が来られました。記念写真をお願いして一緒に写っていただきました。そうそう大友宗麟さんもご一緒です。交流館の入口です。
 ロビーへの入り口には、大友時代の大分のまちの地図と、今現在の地図が埋め込まれています。右の茶色く見える碁盤の目状に整備されているのが、江戸時代の府内藩主の日根野吉明が戦国時代の府内のまちを知る住民の情報を元に描かせた絵図と言われている地図です。1581~1586年大友氏廃絶の年(天正9~14年)頃の街といわれているそうです
 
やがて、大友屋敷も建設されるとか、右の建物は大分工業高校の建築科の生徒さんたちが、いろいろ調べて作り上げた大友氏館の1/50の模型だそうです。この通りかどうかはわかりませんが、こんな立派なお屋敷がそのうち、見られると思うとうれしいですね。 
 地図の上では次々と来られる方々が夫々に、ここは今、こうなっている所よ、まだこの道はあるものね、などと、我がまちの150年前と令和4年の今を比べて、いろいろとお話が盛り上がっています。
 
ここは年表のお部屋と言っても良いでしょう。「大友宗麟のここが凄い、その1」は、大友氏21代当主で大友400年の歴史で最盛期を築いた、その2は、九州6か国を支配する戦国大名となる、その3は、南蛮貿易を盛んにしてヨーロッパへの道を開いた。その4は茶の湯をおおいに取り入れた。その5は、宗麟の使った名前がとても多い、幼名が3つ、その後10歳で元服し、足利義晴から一字もらって義鎮、32才で出家して宗麟を名乗り、なお4つの名前がある。そして、キリシタンの洗礼名の「フランシスコ」もあります。 
発掘で「元青花、梅瓶(げんせいか、めいぴん)」のかけらが出てきました。調べたところ、5個から7個のかけらになります。高価な壺とのことで、そこから大友氏の財の凄さが見えてくるとのことです。
今日の研修が始まりました。まず、交流館館長さんなどのご挨拶があり、映像であらましの交流館、大友宗麟などのお話が語られました。その後は、ボランティアガイドの玉永氏の案内で外へ出る。最初は交流館の玄関を出た先のブルーシートを被った所。
ここが今、発掘をしている所、大友館の広大な中で、ここは、普段の生活の場があった所のようです。 
上記に続く広場、端に桜の木が1本立っている。この広い場所は、奥方のお館があったのか、など言われている所です。ここもやがては発掘されるそうです。ビルやアパートが立っている所は、大友館跡とは違う大分駅近くの町です。 
  
広い、遺跡地区を歩いて回り、いよいよ庭園の方へきました。これは庭園の案内図です。中央水色は、庭園の池です。案内図の左端に、ちょっとだけ見えている白い所、これは、庭園の前に打たれた白玉砂利の敷かれた部分です。発掘したら、池のそばに、玉砂利の部分が出てきてその通りに復元された箇所です。お屋敷を出て、この白玉砂利のあたりからの眺めたお庭が一番美しく見えたのではないか、とのお話もありました。 
土や水中の中に混ざっていた種子や花粉などのかすかな手がかりから当時植わっていた筈の木を特定して植栽がされている。真ん中右の少し色の濃い松は五葉松です。桜の木などはまだソメイヨシノは無い時代、山桜ばかりが植えてあります。岩は、原型を留めているものが多かった、中に割れたものもあったので、そっくりの見本で試して同じ素材の石で最終は作成したとのこと。ご苦労も多かったようです。日本中の、造園家、植栽の専門家の方々の興味がとても大きな反響を呼んだと話されました
戦国時代日本最大規模の大名館庭園です。発掘調査で明らかになった庭園は館南東部分の一角を占め、南西67,南北30メートルの池がある。
宗麟の叔父義長、父義鑑の頃に最初の池庭、その後2度の改修をへて大規模な庭園となりました。 
 近くから遠くから、夫々に、鑑賞し往時を偲びました。最後に、庭園の丘に登りました。北には高崎山が見えます。もしも、この大友館に敵が攻めてきたら、とにかく高崎山に向かう。そこには高崎城が築かれています。そこへも攻めてきたら、玖珠の方へ下がります。美しい庭園を持つ大友館も、戦国時代を生きた城主の館です。備えは何があっても良いように準備されていました。しかし、大友宗麟は臼杵へ引き、後を継いだ22代大友義統(よしむね)は、豊臣秀吉が朝鮮へ兵を送った際、味方の軍を助けることが出来なかったとの疑いで領地を取り上げられ、大分の大友の時代は終わりを告げる。その後、大友家の行事や作法などを「当家年中作法日記」にまとめ上げる。大友宗麟は津久見で1587年に亡くなりました
竹井先生がガイドさんにお礼を言われる。大分の子どもたちが当時良く歌っていたという歌、宗麟公も聞かれたことがあると思う「ミゼレレ」を、ここで歌いたい、と、当時の歌を唄う会の人達と一緒に歌われた、私もほんの少し覚えていて歌えたのがうれしかった。ラテン語の歌詞です。「♬神よ、私を憐れんでくださいその大いなる慈愛によって♬」(竹井成美・現代譜訳)そして解散になりました。充実の時間が過ごせました。 
 
パンフレットに出ていたアクセスマップです。