2006年6月23日(金)晴れ
チョ・ウォンとチョ夫人を思う

マッターホルンの裾野のローテンボーデン(標高2819m)からリッフェルベルク駅(標高2582m)までお花畑の中を約2時間のハイキング、黄色、白、ピンク、紫、様々な花々は私の思い描いていた高山植物のそれより更に小さく美しく可憐、そして色鮮やか。
そこに一羽二羽と真っ白の小さな蝶が飛んできた。ひらひらユラユラ花から花へ飛び交う蝶を見た時、私は何故か突然チョ夫人が浮かんだ。
灰色に煙る大海原の船の上で頼りなげに小袱紗を広げるチョ夫人。サァーと一陣の風に舞い上げられてしまった乾いた白い花びら。そして二度とチョ夫人の手に戻ることはなかった。あの花びらはどこへ飛んでいってしまったのか、ずっと心にひっかかっていた私はアルプスで白い小さな蝶を見てハッとした。

ああ、ここに・・・・・・・


チョ夫人が小袱紗に包んで大切にしていた白い花、野の花の一束、会えばいつも心にもない憎まれ口を交わしていた従兄弟のチョ・ウォン。けして結ばれることのない二人だのにいつしか互いに惹きあっていた。
留守がちのチョ夫人の夫は話し相手に丁度良いとウォンを頼りにし、安心していた。

美しくて勝気、利発、知識欲も旺盛なチョ夫人とウォンは話しても話しても尽きることの無い話題と趣味の一致で気が合い、惹かれ合う仲となる。思っても叶うことのない愛にウォンは自嘲的な生活を送るようになる。趣味に生き、自分の気持ちを受け入れてもらえない思いを女遊びへと傾けていく。ウォンのそういう生活の因を知ってもどうにもならないチョ夫人もつらい毎日。
そんなある日、ウォンが外遊びのおみやげにとチョ夫人に差し出した花束。
白い素朴な野の花、フンと投げおいたチョ夫人だったがウォンが去った後、いとおしそうにつまみあげ、ほほを寄せ香りをかぐ、持ち来たったウォンの心中を思い素直に喜びを言い表せなかった自分を哀しみ、大事に大事に小袱紗の中へ閉じ込めた。
自分のどうしようもなくなっていきそうなウォンへの気持ちとともに、白い花もその花の香も小袱紗に封じ込めた。

封じ込めたはずのウォンへの気持ちは白い花の香りとともに失せるはずだった。
しかし

どうしたことか、白い花の香は月日と共にますます強くなっていく、これにはチョ夫人は狼狽した。こんな筈ではなかった。花の姿は枯れしぼみ小さくなっていく、時々、そっと小袱紗を広げてみるが、しぼみ枯れていく白い花に自分のウォンへの思いを重ね理性を取り戻し、夫への愛を奮い起こしチョ夫人としての威厳を取り戻せていると思っていた。
どうしたことか、白い花がしぼみ枯れていくのとは反対にその香はチョ夫人の胸の奥に封じ込めたはずのウォンへの思いに強く触れていく。

狂おしいウォンへの思いを断ち切るように小袱紗を閉じ、文箱の底に沈めた。沈めたはずだった。沈めたはずだったのに、時折り外を通るウォンの衣擦れの音を聞く度に、廊下ですれ違うウォンのちょっとしたまなざしに会うたびに、己の鷹揚さを誇示するがためにとウォンとのふれあいを許したはずだったのに、日々、美しくなる第二夫人を見るたびに白い花の香りに触れた胸奥のひだが少しずつふくらむのをどうしようもなく思うチョ夫人だった。
とうとうとんでもない賭け事をウォンとの間でする羽目に。
私には自信があったのに。
ウォンにとって私は初恋の人、私は年上でもあり、チョ夫人としての立場がウォンにもおおらかに振舞わせていた。そしてウォンを思えばこそ、ウォンを手放さなくてはと思っていた。しかし、その思いとは裏腹に、ウォンはいつまでも己を初恋の人として一番に思ってくれているはずと信じ込んでもいた。
それだのに、
あの9年間も夫への操を守り通したヒヨンという女にウォンの心が傾いていくなんて。
そして、婦女の鑑と称されたヒヨンがチョ・ウォンに惹かれていくなんて、淑女のたしなみも忘れてウォンを訪れ己の胸の内を切々と明かすなんて。
私は本当に思ってもいなかった。あれはゲーム、ほんのお遊びのつもり。彼女の印を本当に送って寄こすなんて、ウォンとしたことが。私は自分でも驚く程のかってない思いが沸き上がった。それが「嫉妬」と気づいた時、私はもう私ではなくなった。今にして思うと何故あのようなことをしたのか、何故邪教を口実に慈善の人々への迫害を指図したのか。
ただただウォンの気持ちを取り戻したかっただけ、ウォンが振り向いてくれれば直ちに辞められたものを・・・・
今となっては繰り言。ウォンの心を取り戻せなかった私は全てを失った。

私を頼るしか術のない聾唖の少女のみを伴い、綿服に身をやつし、手持ちの黄金の多くを割いてようやっとの思いで身をかがませるだけの座をもらい、船上の人となる。

わが身はいずこへ流れていくのか、いずこに生きる土地があるのだろうか、ウォンを失い、富も名声も失った私、手には一くくりの着替えのみ。でも、私はしっかりと抱いてきた。ヒヨンを知る前のウォンが私にと摘んで来てくれた白い花、小袱紗に包み込み、何度となくそっと広げては香をかいだ白い花。
何故、あの時、うれしい!とウォンに素直に伝えなかったのか、何故あの時私は花束を素っ気無く放り投げたのか、今は心底そのことが悔やまれる。

許してウォン、私がどんなにうれしかったか、あなたはきっと知っていたはず、知っていたよね、私の天邪鬼な心のありようをとっくに全て知ってくれていたよね。ウォン、ああ、私のウォン。

今、どこでどうしているの?私がつまらぬ意地を張り、つまらぬ賭けを仕向けたばかりに、命を落とすことになってしまったウォン、許して。
戻ってきておくれウォン。今更と思うけれど、やはりいわずにはいられない、今の私に残された唯一のウォンの心。

みぞれ舞う船上の片隅で恐怖の中、救いを求めるかのごとく、ソッと胸元より取り出した小袱紗。
ウォン、私のウォン、そっと開いたつもりだったのに、一陣の風に吹き上げられて乾いた白い花びらは飛び立っていった。ああ、手を伸ばせど白い花びらは命あるごとく意思あるごとく西の空に舞い上がって行った。

花びらは一つ一つ、白い蝶になり飛んでいく、舞い上がっていく。

漢江を下った船はやがて見知らぬ国へとたどり着く。

その後のチョ夫人と聾唖の少女はどのように生きたのだろう、見知らぬ伴天連に助けられた二人は教会の片隅で病む人、親を失くした子どもたち、親に見捨てられた子どもたちから姉として母として慕われ暮らしたという。

美しい花の咲き乱れる教会の庭にはいつも小さい白い蝶が舞っていたという。病人の看病に疲れた時、子どもの世話や慣れぬ厨仕事に疲れた時、庭に出たチョ夫人をいつもなぐさめてくれるのはどこからともなく舞い降りてくる白い蝶たちだった。

花の中に腰をおろしたチョ夫人はそんなときはいつも小袱紗を取り出し、ソッと胸に押し当てるのだった。チョ夫人の胸のうちを誰よりもよく解している聾唖の娘、彼女は片時もチョ夫人の側を離れることはなかった。

一日の終わりに伴天連と共に跪きマリア像の前で他人のために働ける幸せに感謝し、今日一日の疲れを癒されるのだった。ウォンへの思いは失せるどころか日々強くなりウォンと交わした言の葉のあれこれ、ウォンの笑い声、ウォンのまなざし、ウォンの刀さばき、等々、様々のことが思い出され、このようにたくさんの思い出を自分に残してくれていたウォンのことをマリア様に祈らずにはいられないチョ夫人だった。

漆黒に輝く美しい髪の毛が自慢の一つだったチョ夫人だったが今はその大半が白くなった、今、やっと私はウォンとヒヨンの二人のためにも祈ることが出来るようになった。ウォンの青春を我が物とした長い年月、それに引き換え、なんと短かったウォンの真実の愛の日々だったことか。今、私は心よりウォンとヒヨンの二人の恋の日々、愛に目覚めた日々、育んだ束の間の日々を祝福することが出来る。

この世ではあまりにも哀れだった二人の結末、しかし、来世での二人の幸せを今は毎日、祈っている。二人の幸せが私の幸せと感じられる私になれたことをかって邪教と呼んだ聖母に心よりの感謝の祈りをささげる私がいる。
2006年6月19日~7月11日 スイス・ベルギー旅行にて by Mie