韓国の歴史
その19、三国の統一戦争 : 百済の滅亡 その1
ヨンジュンさん演じるタムトック王が甲冑姿で私たちの前に現れました。何と麗しくそして孤高の王としての哀愁を漂わせた姿でしょうか。いよいよ撮影も本格化、チェジュへ入っての撮影も行われ、今は、ソウル近辺で様々なシーンの撮影が静かに熱く行われていると伺います。騎馬戦士たちが入り乱れての戦闘の場面は遠くキルギスの草原で行われるとか、そして、その撮影第一陣は既にキルギスに到着したとか、果たしてヨンジュンさんのキルギス入りは何時なのでしょうか?家族としては気になるところですが、私はこの「韓国の歴史」を書き進めなくてはいけません。さあ、行きますよ~
西暦660年、百済は唐と連合した新羅の攻撃を受けて滅びてしまいます。700年間続いた百済はその姿が歴史から消えてしまいます。後の世の人々は百済滅亡の原因を最後の王であった義慈王(ギージャーワン)が無能で、道楽好きだったからだといいます。しかしそれだけの理由で国が滅びてしまったのでしょうか。当時の百済は新羅との戦いで勝ち続けており、三国の中でも充実した国力を備えていました。
そうすると、百済はなぜ、どのようにして滅びてしまったのでしょうか。
百済の最後の王、義慈王。彼はドラマチックなロマンスから生まれた人でした。彼の出生にかかわる新羅の古い歌が残っています。~きれいな姫、サンファ姫 マドンと遊んでから宮中へ帰る~この歌に登場するサナ姫は新羅チンピョン王の娘で美人だったといわれます。姫が夜中にひそかに逢引をする相手の男性マドは後に百済の王になる武王です。彼は美しい姫と結婚するためにそのような歌を作って新羅の子どもたちを通じて流行させました。怒ったチンピョン王から島流しの処分を受けたソナ姫をマドは百済につれて帰ります。
当時の百済と新羅の関係はどうだったのでしょう。当時、両国は互いに軍事的な対立を繰り返していました。たとえば554年の新羅との戦いでは百済のセイメイ王が戦死してしまったこともあります。一言で言って新羅と百済の王室同士が婚姻をすることは無理な話でした。しかし何故、マド後の百済の武王は新羅の姫と結婚しようとしたのでしょうか。
韓国伝統文化研究所のイトハク教授の言葉
敵である新羅の姫と結婚することによって、百済と新羅の対立を和らげること、百済の王室での武王の基盤を確立するためだったと考えられます。すなわち、ロマンスを装った政略結婚だった可能性が高いと考えられます。新羅との対立を和らげて武王は百済の国内の政治を安定させ百済の軍事力の拡充を図る機会を得たのでした。そして武王と善花姫の間に生まれたのが後の義慈王(ギージャーワン)です。義慈王が王位を継承したのは40歳を過ぎてからです。彼が王になるまでに、いろいろな紆余曲折を経験したことでしょう。新羅の姫の息子が百済の王になることを嫌うのは当然だったかも知れません。
そのような過程を経て641年、王になった義慈王は、660年に百済が滅びるまで在位します。義慈王という王の名前は後につけられた名前です。「正義感が強くて、慈愛心を持つ王」という意味です。「三国史記」にも「勇気ある性格で決断力があり、一方では慎重で思いやりがある」と記しています。親孝行でも有名だったようです。こうした記録からは、義慈王は国内政治と政権の基盤を確実に安定化することに成功したと考えられます。

それでは義慈王の時の百済の国力はどうだったのでしょうか。当時の百済の人口を示す記録は現在まで見つかっていません。しかし、百済が高句麗より人口が多かったという記録があります。経済力や人口をもって国力を測ることとすると百済が高句麗より強かったという話になります。義慈王は国内の安定と経済力を基盤にして新羅への攻撃を続けて行いました。しかも自ら兵を率いて戦闘に参加し、勝利を収め続けています。
「三国史記」の記録から見ると義慈王は王になってからすぐ新羅を攻撃し始めました。新羅への軍事的圧迫を強めて今のプサンのあたりまで進出しました。
その戦闘の中でも大耶城(テヤソン)の戦いが有名です。いまの慶尚南道の合川にあった大耶城は、新羅の首都、慶州へ進出できる戦略的な要地でした。義慈王は642年、ここに総攻撃を加えます。勝利は百済のものでした。
チョンジュ教育大学 キムチュソン教授です。
この大耶城の陥落は百済の立場からいうと新羅の首都キョンジュ慶州の攻略が出来るようになったということです。新羅の立場からいうと目の前まで敵がきたと言うことになります。三国統一戦争の本格的な始まりでした。負けた新羅は衝撃を受けますが、その中でも後に新羅の王になる金春秋は一番のショックを受けました。それは陥落した大耶城テヤソンの城主は金春秋の婿である金品石だったからでした。その戦闘では婿と最愛の娘が百済軍に殺されてしまったのでした。殺された娘と婿の首だけが送られてきて遺体さえ返してもらえなかった金春秋は復讐を誓います。百済と新羅の間には新しい局面が待ち受けていました。
義慈王は引き続き攻撃を強めました。新羅はあっという間に40あまりの城を奪われました。新羅に対する百済の総攻撃です。
イトハク教授です、
王が自ら兵を率いて戦争の指揮をとる訳です。それは戦争の比重が大きいということを示しています。同時に王が参加した戦争で勝利をおさめることは、王の権威を高める効果があります。義慈王は自ら新羅との戦闘に積極的に参加しています。そして40あまりの新羅の城を奪ったことは、義慈王の権威を大きく高めたことでしょう。
新羅としては足元に火がついたわけです。復讐したい気持ちはやまやまですが、新羅だけの力ではできません。金春秋自身が隣の高句麗に入り、高句麗の実質的な指導者である淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)に軍事支援を願い出ます。しかし同盟交渉は失敗します。高句麗は6世紀半ばに新羅が百済と連合して奪った韓半島中部の竹嶺以北の地域を高句麗に返すことを条件にしたからです。「竹嶺の北はもともと高句麗の領土、返してくれるならば力を貸しても結構だが」「ウーーンそれはそういうわけにはいきません」ヨンゲソムンは自分の要求を拒否した金春秋を監禁しました。以来高句麗と新羅の関係はむしろ悪化し高句麗と百済の同盟関係が成立します。
金春秋は高句麗に続いて日本の大和とも手を結ぼうとしましたが、失敗します。しかし西海を越えて唐と軍事同盟を結ぶことに成功し、唐の軍事力を韓半島に迎え入れたのでした。これによって7世紀後半の三国に大きな政治的変化が起こります。
高句麗、新羅、百済が共存していた7世紀半ばの韓半島に大きな嵐が襲いかかり始めたのです。
夫々独自の文化を栄えさせた三国。その一角が崩れました。そして、新羅は唐と手を結びました。不吉な黒い雲が高句麗を覆い始めました。満州平野を舞台に韓国の歴史上一番広い領土を誇った高句麗、名君と言われた広開土大王(カンゲドテウァン)そう、ヨンジュンさん演じるところのタムドック王が没して230年後のことでした。私たちはドラマの中の広開土大王が何時までも活躍してくれることを願いたいですが、でも、歴史は非情です、真実を見つめないわけには参りません。広開土大王何時までも、高句麗よいつまでも、と願う(あくまでもヨンジュンさん演じるドラマ上の話ですが)私たちにはだんだん辛くなっていくかもしれません。(2006.9.25 by Mie)
広開土大王(カンゲドテウァン):374~412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391~412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
その18、三国時代の生活④ 瓦の家と詩(うた)の国、新羅 その20、三国の統一戦争:百済の滅亡、その2