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1999年10月30日-31日、大分市の曲(まがり)、津守、滝尾を散策、      by Mie
  

大分市報で、松平忠直公の350年祭の遺品展を知り、見に行きました。会場は大分市曲の公民館、この辺りは始めての所なのでついでに近くも歩いてみることにしました。

松平忠直公は、徳川家康の孫にあたり、越前68万石のお殿様でしたが、家康の勘気に触れ、大分の津守に流されました。29歳でしたが、出家して一伯と名乗り56才で没するまで、名君として慕われました。津守はこの公民館のすぐ近くの町です。
大ホールでは、一伯公が津守の熊野神社に奉納した「熊野権現縁起絵巻10巻」が50年ぶりに公開されていました。極彩色の絵巻物はとても美しいものでした。また、遺品の馬具や鏡が展示してありました。

ロビーには一伯公を取り上げた書籍がたくさん並んでいました。私は菊地寛の書いた「忠直卿行状記」が大好きでした。
一伯公350年祭にちなんで、小学生の書いた書道や絵もたくさん展示してありました。
公民館の外を少し歩いて見ると、こんな標識がありましたので、それに従ってずんずん歩いて見ました。小高い丘を上り詰めると森岡小学校があり、その側を少し下がると、石仏がありました。
   

曲の石仏です。左の写真は釈迦如来座像、奥行き7m、高さ6mの石窟の奥に座っていますが、頭、胸、腰、両膝をそれぞれ別の石材で組み合わせて作ってあるそうで、鎌倉中期の作とか。右の写真はすぐ隣にある龕(がん)に彫られている阿弥陀如来坐像です。この曲にある石仏の中でも一番初期の平安後期の作品だとのことです。

やはり大分には石仏が多いなと思いました。今日は思いがけず珍しいものをたくさん見ることが出来ました。

1999年10月31日、碇島のお祭りです。

松平忠直卿が大分に流されてきた住まいは津守にあったそうです。そこでは、越前時代とはうってかわって信心深い穏やかな日常を過ごしていたそうで、熊野神社をこの地に再建して熱心にお参りをしたそうです。

今日はその祭礼。町の辻つじにかわいいお飾りが立ててありました。


    

一伯公が再建した熊野神社のある碇島はJR滝尾駅の目の前にありました。大きな石の鳥居の側にもお飾りがありました。
碇島とはおもしろい名前ですが、その昔、神功皇后が船の碇を結わえたという言い伝えのある山です。少し地面を掘ると、海の砂が出て来るとか。
標高56m、山頂に熊野神社があります。
途中の六角堂には、松平忠直卿の廟がありました。墓碑は1656年明暦2年の七回忌の時に建てられたそうです。この建物は昨年、改築されています。
   

お社は三つ葉葵の紋瓦が使われていました。当初、鎌倉時代の1196年に大友氏によって建てられたが、大友氏の滅亡と共に春日神社に移されていたものを、忠直卿が二男松千代の名前で再建したそうです。今日はたくさんの人が訪れています。
      

神楽殿では、地元の人々によって、お神楽が奉ぜられていました。滑稽なひょっとこが出てきて、見ている小さな子供を舞台に上げては舞いを舞い、ヤンヤの喝采を浴びていました。こうして神楽殿に上げられた子供は元気にすくすくと育つのだそうです。
碇島から北を見下ろしました。大分市街が海まで広がっています。昔はこの辺りまで海だったのでしょうか?
碇島を下りて、津守の町で、忠直卿の住居跡に行きました。目印の石柱が建つのみでしたが、何だか急に忠直卿が身近に感じられました。家に帰ったら久しぶりに菊地寛の「忠直卿行状記」を読んでみたくなりました。
   

この地域にはもう1ヶ所、見落としてはならない所があります。「滝尾百穴」と呼ばれている6世紀後半の横穴古墳群です。百穴とはいいますが、実際は84基あり、中に遺体を安置して石で入り口をふさいでいたものです。その後、荒らされて形を変えられたものもあり、遺物は何も残っていないそうです。ここは滝尾中学校のグランドの側です。すぐ側で子供たちがサッカー競技をしていました。それは不思議な光景でした。いろいろと大分の歴史に触れた二日間でした。

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