2020年11月8日:別府溝部学園短期大学公開講座2020オープンカレッジ
「竹田および旧岡藩領地のキリシタン関連遺跡を訪ねる旅」
別府溝部学園短期大学公開講座、2020「大友宗麟ゆかりの西洋文化とその後の行方を探る~」ということで今日は竹田にきました。赤と、ピンク2台の観光バスに乗って、コロナ禍の中、ソーシャルディスタンスを取るためにゆったりとした配置で大分駅を出発、 
講座の出席者と、大分の文化に触れたいと、学園の生徒さんたちも参加、天気も良くなって、窓から見える里山の風景は紅葉を交えてとても美しい。講師の竹井成美先生と、今日の特別講師の木内秀幸先生、担当教員の松尾先生が同乗、大分駅を出発、それぞれのご挨拶の後、早速、木内先生の講義が始まる。 
今から行く、岡藩の概要、そして、まずは朽網のキリシタン時代の説明です。1551年にザビエルが大分に来て以来始まった豊後のキリシタン文化、その2年後には朽網に教会が建設されました。大分の大友宗麟の力が大きかったようです。そこで、朽網より先に大分に教会が出来たのではないかとのこと。府内~朽網間はキリシタンロードと言われるほどに宣教師の往来があったとか。 
 朽網とは長湯温泉のあたりの地名だそうです。そこには今に残る本当に貴重な「原キリシタン墓INRI石碑」があるとのこと早速に見に行きました。INRIとは、『ユダヤ人の王ナザレのイエス』の略です。

昨夜までの雨が上がった高原の朝です。霧が登っていくすがすがしい山々の景色、皆で歓声を上げて眺めました
 朽網宗麿・宗策父子 ルカスという洗礼名を持つ朽網氏が死者を祭る墓地を作り、そこに大きな十字架を立てて先端に置いたと言われる石製の十字架がこの屋根の下に置かれている。
 このINRIの文字が刻まれた石製千十字はとても貴重なここでしか見ることのできないキリシタン遺跡だそうです。
1562年イエズス会士の書簡に「豊後(府内)より9レグワ(50㎞)の朽網に名をルカスというキリシタンあり、自費を以って甚だよき大会堂を建築し、~中略~石の大十字架を建て、己の死した十字架の下に埋葬せんことを命じたり」とあり、この墓碑はルカスの墓の上に建てられた十字架の上部ではないかといわれています。
 説明をしてくださる木内先生です。大分「県指定史跡 原のキリシタン墓地」と石柱が立っています。これが発見されたのは5~60年前とのこと、大分のキリシタン遺跡は本当に知られていないと、木内先生は嘆かれます。
INRI石碑と別れてから、今度は「宣教師洞窟」「大津大庄屋」へとバスは走ります。観光案内図を資料として頂いているのですが、咄嗟にはバスの経路が判読できません。 ここから竹田市キリシタン研究所の後藤篤美氏が説明をしてくださる。庄屋屋敷の傍を登って行った所に大きな洞窟が3つあった。最初の洞窟は祈りの場、正面の壁には棚が作られていて、祭壇だったのだと思う。棚には礼拝のための諸道具が置かれたと思う。ここに信者たちが集まり礼拝をしました。
この辺りは昔から、硝石を作っていた所だそうです。その技術は、イタリア人宣教師フランシスコ・ブルゲリングがもたらしたものと言われている。祈りの場の左には二つの洞窟がくっついて掘られている。右は宣教師の住居というか寝所、壁に浅い穴が掘られていて灯を置いたのではと言われている。左の洞窟は、なんと、トイレだそうです。そして、このトイレがとても重要な役目を持っていた。驚きました。
 
 
硝石の原料はなんと、尿と植物の葉から作るのだそうです。そのためにこのトイレは尿を貯めておく。後藤氏がライトを当て見せてくださる。ここがトイレです。和式トイレになっています。
トイレも、その穴も、寝所も礼拝所もどうぞ入ってよく見て覗いてみてください。と後藤氏。ふつうはこういう所は、入るなんてとんでもない、
そして、トイレの洞窟の外に尿をくみ出す穴が掘られていた。
 鉄砲の日本伝来は、1543年、ザビエルは1549年に鹿児島から上陸、1551年9月には豊後の国へ入った。ここで大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った。
その後、岡藩では長く鉄砲に使う硝石をこの地で作っていた。
庄屋屋敷の瓦の紋章は十字、
紅葉が美しいです。岡藩の硝石工場?の見学を終えてまたバスに乗りました。 
バスに乗って向かったのは、「鏡処刑場跡」です。処刑場見学なんてとても辛いです。「市指定史跡」 平成18年に建てられています。鏡処刑場と書かれた石柱です。 
 竹田とその周辺では朽網氏によってキリスト教の布教がされ、教会も建てられました。その後岡城主志賀親次が布教を勧める、1566年に大友宗麟の娘の奈多夫人を母として生まれた志賀親次はキリスト教を信仰し1585年にはドン・パウロという洗礼名を受けています。当時、竹田のキリスト教信者は15000人ほどにもなっていたと言います。村落殆どの人が信者だったことになります。
 今回の竹田市フィールドワーク講座で聞いたお話で一番驚いたのが、竹田では「隠れキリシタン」ではなく、「隠しキリシタン」だという言葉でした。
大友氏改易後に竹田に入った中川氏もキリシタンを保護しました。お寺もキリシタンを檀家として受け入れたそうです。しかし、中川氏3代、8代の頃にキリシタンの処刑が行われました。その数44人、信者の数に対してあまりにも少ない数と思いますが少なくて本当に良かったと思います。

処刑場には大きな供養塔が3基建てられていたのでしょうが、一番左は水害でこわれたとか、処刑場の後ろは川です。

処刑場には、お寺によって供養塔が3基建てられています。そこに彫られた文字は仏教の経文です。
何無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、もう一基は根元から無くなっていてわかりません。そしてこうしてみてみると法蓮華教の華には十字が書かれているかに見える、と後藤氏は言われました。
1593年には岡城で降誕祭クリスマスをしたそうです。聖歌隊はなんと2000人だったとか。この頃が豊後での最大級の信徒数の時代だったとか。

処刑場を後にします。
まぶしいような青空に真っ白の雲、その日も、こんな空だったのでしょうか? 
鏡処刑場から、竹田市の中心へ行きました。竹田市も、中心地以外はあまり知らない私です。キリシタン研究所へ行くことが出来て展示の美しい様子に皆さんの意気込みを感じうれしくなりました。所長さんの後藤氏をはじめ、熱を持って、運営されていることが良くわかります。

ミサの時に使う聖具なども色々展示されています。彫りこまれた文字などが見えるように展示も工夫されえいるとか。 
 その中で目を惹いた展示は、サンチャゴの鐘、レプリカとのことですが、精密なレプリカで、音色も同じ音色が出るそうです、私も撞いてみました。「カーン」と高く響き渡る音は異国をかんじさせます。サンチャゴとはスペインの巡礼地への道、サンティアゴ・デ・コンポステーラという言葉で知ってはいましたが、キリスト教の十二使徒の一人聖ヤコブを表す言葉だとは、知らなかったので自分でびっくりしています。
1612年製の鐘と1961年に、ヤコブとみられる像が城跡近くの草むらで見つかったとか、資料館に大事に置かれていました。これは 聖ヤコブの像と言われています。銅像だったと思いますが、はっきりとはわからないとか、大きなサンプルで素材を詳しく調べたら、明らかにもっと明らかになるそうですが、今わかるのは日本の土ではないということ、まだ明らかで無いので 「伝:ヤコブ像」とかかれています。台座のカラー写真はサンチャゴにあるヤコブ像だそうです。
フランスから入るスペインの伝道の道、サンティアゴ・デ・コンポステーラの最後の地に置かれているサンチャゴ(ヤコブ)の像」だそうです。

そのほか、聖具や、僧衣など、さまざまキリスト教関係の品、また岡藩のお殿様のエピソードなども分かりやすく展示されていました
  
紋章はスペイン南部のマラガの修道院でも発見されている。岡藩とヨーロッパの関係は今後も調査をすすめていく余地がある。と書かれています。岡城の入り口の雰囲気は、世界遺産のスペインの城壁都市クエンカ カノニコス通りによく似ているそうです。またキリシタンのお墓にみるカマボコ医師を並べた通りもクエンカ、岡城と本当によく似ています。岡城築城にあたり、宣教師の指導があったのでしょうか?
 特別講師として、詳しくいろいろを説明してくださった大分額大分再発見講師の木内秀幸先生です。いつも笑顔の素敵な先生です。
 本日のハイライト、行きたかった所です。「殿町キリシタン洞窟礼拝堂」です。キリシタン研究所から歩いていきます。その手前にこんなショーウインドウがありました。この可愛いだるまさんみたいなのは、竹田の民芸品の「姫だるま」といいます。年に一度はテレビでも風物詩として紹介されるのを見ますね。面長美人です。昔はお正月元旦に若者がこの姫だるまを投げ込んで回ったといいます。投げ込まれた家は福が来たと縁起良いと喜んだといいます。起き上がりこぼしの優しいだるまさんです。
武家屋敷通りの奥、広瀬神社がありました。 その前に竹田出身の広瀬武夫のブロンズ像(大分県出身の彫刻家である辻畑隆子作)が立っています。日清・日露の戦争で戦った軍人です。  生い立ちを読んでいたら、西南戦争や、加納治五郎、、夏目漱石、清水次郎長まで出てきてびっくりしました。日本初の軍神となったとか。知らないことが多いです。
広瀬神社の近くに、今から行く、 「殿町キリシタン洞窟礼拝堂」の矢印のついた石柱が立っています。
お稲荷さんの赤い鳥居が見えてくると、洞窟礼拝堂の道しるべがあり、歩いていくと山際に礼拝堂が見えてきました。 
岩壁をくりぬいてつくられた礼拝堂で幅、奥行きは3m、高さ3.5mほどの大きさです。
階段横の穴は、信者さんたちが使った、茶の湯でいうところのにじり口では無いかと言われている。キリシタンと茶の湯の関係も、中川藩の家老はキリシタンの織部灯籠を残した古田氏の末裔だったり、織部焼など、茶の湯に通じる所もおおく言われている。
正面の入り口は、ヨーロッパの形式に見られる五角形になっている。 すぐ右の洞は居住跡のようです。
すぐ隣には水も出る「住居跡らしき岩陰の屈がある、作られたのは近世の初期あたりで当時はキリシタンが多く宣教師もいたが秀吉の禁教令が出され、徳川幕府もそれを引き継いだ・それでも、この地域の領主などもそれなりの取り締まりはしていたようですが、見て見ぬふりもしていた。竹田のキリシタンがかくれならぬ「隠しキリシタン」と言われる所以でしょうか。 
礼拝堂は正面には赤土色の漆喰がぬられた祭壇が作ってある。 この礼拝堂は14世紀のローマの洞窟礼拝堂にとてもよく似ている。こうした点で全国でも例を見ないものと、案内板に書かれている。
数人ずつ礼拝堂に入れて戴いて静かな時を持つことが出来ました。キリシタン信者の出入りしたにじり口のような入り口を洞窟の中から見ました。太陽の光が差し込んでいます。 
後藤氏が懐中電灯で祭壇を照らしてくださった。何とも言えない雰囲気になり厳粛な気持ちになりました。祭壇の置物は後世のものです。
 
 窓に差し込む光に当時の信者さんは何を思ったでしょうか?月の光の差し込む時に集まったのかもしれないです。それとも真っ暗の夜しか集まらなかった?などと、当時に思いを馳せました。
説明版には、当時の様子が書かれています。しかし、厳しいキリシタン弾圧の世を経て洞窟礼拝堂 を伝え残された意味は大きいと記されている。
竹井先生や学生さんたちは、堂内で当時の豊後大分の街中で子供たちもうたっていたという♪ミゼレレ♪(天正少年使節がヨーロッパから持ち帰った歌)を歌われた。本当に良い時間になりました。 
広瀬神社まで帰ってきて、帰途のバスに乗りました。帰り道にもう一か所、見るべき貴重な遺跡があるとのこと。少し弱くなった太陽に照らされて黄葉がきれいです。
稲刈りの終わった田んぼが可愛いです。もうすぐですよ、と木内先生です。
まずは道の駅でトイレ休憩です。私は松村さんと道の駅へ行きました。お野菜がとてもおいしそうです。早速買いました。 
 帰途の朝地町の 千十字クルス(摩崖クルス)です。民家も見える田んぼ・畑の中に大きな岩板が立っています。そこには、長湯温泉の朽網で見た「原キリシタン墓INRI石碑)の原型ともいえる姿が線刻されていました。
  
傾いた夕陽が光って、見えにくいですが、木内講師が手書きで書いたプリントを下さっていたので、その絵と比べながら、裾の「カルワリオ」(雲台)イエス様の十字架の立っていたゴルゴダの丘を表しているとか、その上に十字が描かれ、聖痕も描かれている筈、私にはかろうじて十字の柱が確認できました。その上には留めがあって、INRIと彫られている筈。木内先生が配布してくださった復元図をご覧ください。↓
 
これはとても貴重な遺跡だそうです。もっともっと研究がすすみ、世界に認められるキリシタン遺跡になると良いのにと思いました。
今回は本当に貴重な学びをさせていただきました。公開講座を開いてくださっている溝部学園、講師の竹井先生、今日の特別講師の木内先生、いろいろと気配りをして下さった松尾先生、キリシタン研究所長の後藤氏、本当にありがとうございました。とても素晴らしい一日でした。