2019年11月10日:「大友宗麟のもとで豊後に花開いた西洋文化とその後
~臼杵・野津関連遺跡探訪~
別府溝部学園短期大学公開講座も3年目、竹井先生の講座「大友宗麟のもとで運後に花開いた西洋文化とその後」というテーマの今年の講座です。

今日は3年目にして初めてのフィールドワークです。松村さんと出席です。バスに乗っていきます。集合場所は駅前広場の大友宗麟像の前。途中には、こんな府内パッチン番外編が置いてある。テーマは「ラグビーワールドカップ 」ラガーマンです。 
大勢の人たちが集まってきました。興味持たれている人が多いです。と、こんな可愛いマイクロバスが来ました。幼稚園の送迎バスだとか。ぎっしり満員です。いよいよ出発です。ワクワク  
今日の特別講師の木内秀幸先生を竹井先生がご紹介して下さる。その後、溝部学園食物研究科の先生から「宗麟南瓜」の紹介があった、日本のカボチャの歴史は、16世紀1541年に漂着した南蛮船(ポルトガル)の積み荷が発祥だとか。今の南瓜とは違うが、シフォンケーキにしたらおいしかったのでと、一人一人にプレゼントして下さる 
江戸末期から明治にかけて西洋南瓜がアメリカから伝わり主流となって、一時、大分では宗麟かぼちゃが姿を消したが、かろうじて豊前市三毛門で「三毛門南瓜」として栽培されていた。大分県職員有志が2002年から宗麟カボチャを復活させようと実行委員会を発足、2007年「宗麟南瓜」として里帰りを実現させた。  
宗麟南瓜の由来などお話を興味深く聞いているうちに、車は、高速を降りて、臼杵の石仏の里の方へと入って行った.。 
 「キリシタン関連遺跡を訪ねる旅」今日の順路を書いたレジメを片手にいよいよ行動開始です。
矢印が出ていますが、案内は掻懐(かきざき)キリシタン墓と書いてある。この地には大橋寺というお寺があり、大きな石碑が立っています。そこには、禁教後も多くのキリシタンが住んでいて、禁教令の宗門改め(1661~1667年頃)の前に和尚さんが村人を全てお寺の門徒として迎えたことから救われた感謝を書き記した大きな石碑です。
ここには十字架のしっかりと彫られたかまぼこ型のお墓と、長方形のお墓が置かれています。 十字架の下の山形は、ゴルゴダの丘を表しているとのこと、まだ禁教の厳しく敷かれていない時に作られたのではないかと言われるしっかりと十字架の彫られたお墓です。 
 クリスチャンのお墓は、かまぼこ型が多いそうです。大友宗麟の津久見のお墓は、とても立派なかまぼこ型です。(昭和52年磯崎新氏設計)
 
次は野津町院寺にある「摩崖クルス」です。バス通りから広場を超えて石段を少し登った山裾にあります。ここに元からあったのでは無く、大友宗麟が豊後を治めていた時代に、小路村にあった到明寺を教会としていたようでその頃に使われたのではないかと言われている。 
このクルスがキリシタン弾圧期をくぐり抜けてこられたのは、このあたり一帯が江戸時代は臼杵藩の直轄地として石が持ち出せなかったこと、また故意かどうか分からないがクルスの彫られた面が下に伏せられていたためではないかと言われている。 
 円の中に雲形台に乗った千十字章を陽刻(浮き出るように彫ること)したものである。
成立年代は不明であるが、大友宗麟が豊後を治めていた時代ではないかと言われている。
雲形台の上にクルス、というのもやはりゴルゴダの丘を表しているなど、分りやすい説明をして下さる木内秀幸先生を囲んでお話が弾みます。 
続いて「一ツ木かくれキリシタン地下礼拝堂」です。車は坂道を登り、お寺の前に着きました。そこからお寺の裏を回るようにして登るとパッと広場が広がる、その真ん中にぽっかりと穴が開いていた。 
ぽっかりと穴が開いている、梯子までかけてある、誰でも入って見て良いですよ、気をつけて、と声がかかる。横穴式古墳の再利用の地下礼拝堂らしいとのこと。 
  中へ入られた人がすぐに上がってきて、下は雨水でビシャビシャです。ダメです。とのこと。水はけや、湿気除け、空気抜きなどなど、いろいろ工夫してあったようですが十字が彫られていたり、天井の中央に薄く十字が認められるなど禁教の時も、ひそかに集まって固く信仰を守った人たちの礼拝堂だったのだ。
 竹井先生の指導で、大友宗麟の時代に大分の街で子どもたちも歌っていたと言われる「Miserereミゼレレ」を皆で歌う。溝部学園の土屋・渡辺両先生が、打楽器での伴奏を添えて下さる。♪ミゼレレ メーイ デーウース セークンドゥム ミーゼ―リーコルーディアムトゥーアム? 
最後にまた地下へと通じる穴をのぞき、バスの方へ戻る。広場のすぐ下の家の石垣に祠が彫られていて、その中に観音様が置かれていた。これは冠の前に4つの穴が掘られていて十字を表す。マリア観音です、と教えて下さる。またその下の家の裏には地下礼拝堂からの抜け道に通じる穴が開いているとのこと。やはりもしもの時も想定しての地下礼拝堂だったのかと思うと胸が痛みます。 
 
 今日,訪ねる場所の紙を見るが、まだ3か所を訪問しただけ、時計の針はドンドンすすむ。
今度は野津町中央公民館へやってきた。トイレ休憩と言われるが、私は公民館の壁に大きく描かれた「吉四六トンチ話」が気になって仕方が無い。この絵は「吉四六さんの天昇り」です。
吉四六さんもクリスチャンでは無かったのか?と聞いていました。吉四六さんの昇天のトンチ話があると聞いて、それは間違いないのではと思いました。
 今度は高速に入って、すぐの臼杵で降りました。ここに国指定の「下藤キリシタン墓地」があります。日本最大規模だそうです。国指定ということできれいに整備されています。宣教師ルイス・フロイスの記録によると、この近くには数千人のキリシタンが住んでいたとのこと。戦国時代末期から江戸初期にかけて信仰が盛んだった。下藤キリシタン墓地は、平成23年から4年間発掘調査をした。そして平成30年6月15日に国の指定を受けた。
  
 墓壙(ぼこう、左の写真)という棺桶を埋めるための穴と墓標と呼ばれる長方形の石材が66基分ずつ完全な形で見つかったそうで、上記のようにきれいに並んでいる。身分の差も問題にされなかったことが埋葬の仕方の見て取れる。

その後、禁教の時代にも破壊されずに残ったキリシタン墓地です。その価値はとても高いとか。
このお堂の中に置かれているのが、豊後の最初の殉教者の一人であるジョウチン(常珎)の墓といわれています。つい数日前のニュースで、バチカン図書館からマレガ文書の研究のために大分へ来られた方がここを訪れ、見ておられる映像が写されていました。私たちも一人一人、のぞき込んで、墓石に刻まれている十字架を見せて戴き、祈りました。
「湯布院の古くからのキリシタンであり、刀工であったジョウチン」とフロイスが「日本史」に書いている。宣教師たちが豊後を退去するにあたって、ジョウチンに後のキリシタンたちのことを任せた。
1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令発布を受け大友宗麟の嫡子吉統は信仰を捨て、キリシタン迫害を始める。そして1589年豊後で最初の殉教者が出る。高田のジョラン一家とジョウチンである。

もう薄暗くなり木内先生がライトを照らされて見えるのがギリシャ風十字と、その下に漢字で彫られている「常珎」という文字です
 ジョウチンのお墓の安置されている建屋の前は、広くなっているが、かすかに高低が見られる。そこが遺体を葬っていた場所になるとのこと。たくさんその痕跡が並んでいるのがわかります。

写真の手前には、日本の墓石もたくさん並んでいる所があって、このあたりの人たちは、普通にキリシタン墓地と共用していた風に思えます。
 国の史跡として保護されていくために遺跡が全て掘り起こされて、計測され、そして、今はまた埋め戻されているのでしょうか?隠れキリシタンの方々のお墓というものの在り方をとても考えてしまいました。普通の車も入れないような所に、またお寺の陰にひっそりと長い年月を経てきたクリスチャンたちのお墓はこのままだと、ジャングルの中になってしまいそう、だからと言って、掘り起こされて観光バスも来れるよう所にすることが葬られている人たちの意に沿うことなのか、分からなくなりました。ただ安らかに、としか言えません。
上は了仁寺といいます。石の文化が盛んな九州でもこれほどに立派な石橋は珍しいと言われる石橋があるお寺です。伽藍も立派です。このお寺が、禁教の時代、多くの人を寺請制度によって、キリシタン弾圧から救済したとのこと。このように、《長崎は迫害と殉教」の歴史であり、悲痛なものを感じます。豊後は「静かに信仰を守りぬいた」歴史です。》と木内先生は言われました。

もうこんな夕焼け雲の出る時間になっています。 
予定の半分位を見ることが出来ました。先生のお話は、現場をよく歩かれている中から出てくるので、いくらでも聞いていたいと思います。先生も「またこんな機会を作って残りを歩かないといけないな」と話されました。そんな機会があればまた是非、行ってみたいと思いました。 
道を逸れて、竹やぶの中へ入って行きます。滑らないようにして下さい、と注意が飛ぶ。おりた先には、 
こんな不思議な形をしたものがありました。大きな石の何かの基部です。これは、大きな石の十字架の壊れた残骸です。当時は大きな十字架が高台や、山の上に、立っていたそうです。それを見て祈りをささげるとか、しかし、禁教時代に入り、倒されたのか、それまでに自然に倒れたのか、そうして、目立たない竹やぶの中に運び保存されたのか、よく分かりませんが、そう外れてはいない推測だと思います。
とても珍しい遺跡だそうです。
 
近くには礼拝所のようなものがあって、観音様のような伴天連地蔵が並んでいました。しかし、そこに魚のようなものが彫られている、月のようなものも彫られている。これらはキリスト教の印だとか。 
ビニールハウスがたくさん並んでいる畑の外れを歩いて見に行ったのが、この遺跡です。キリシタンの墓石が無造作に寝かされています。お花を供える竹筒なども置いてあるけれどもう久しくお参りされていない雰囲気です。熱心に説明をして下さっている木内先生です。 キリシタン墓群、野津町有形文化財と柱に書かれていますが、固有名詞が分かりません。
 「禁教期のキリシタン資料とそれに書かれている遺跡群が現存する貴重な遺産を訪ねる旅」は終わりました。今日の参加者は、男女・年齢も様々な人たちでしたが、どなたも熱心に聞かれていました。今日、見ることの出来なかった所、まだ行けていない国東、大分、由布院、竹田、杵築などを探索する機会があれば行きたいと思いました。
車は高速を走って大分へと急いでいます。高崎山の向こうがピンク色に染まっていました。 

公開講座の竹井先生、溝部学園の土屋・渡辺両先生、そして、特別講師の木内先生、本当にありがとうございました。今日、一緒に行くことが出来た松村さんうれしかったです。ありがとうございました。