2019年11月4日:大分教会130周年記念研修「童話の里くす町へ」
何て美しい青空でしょうか、今、九州自動車道を観光バスに乗って走っています。何だかうれしくなる秋の空です。

今日は大分教会の研修旅行で牧師先生をはじめ 30名ほどで久留島武彦記念館へ行きます。大分教会が出来て130周年の記念事業です。

久留島武彦は明治7年、玖珠郡森町に藩主来島島通明の弟通寛の長男として生まれる。1887年大分中学4期生として入学、翌年英語教師としてB.W.ウォータス宣教師が着任、まもなく、広島伝道のため大分を離れた代わりに派遣されてきたのがウエンライト先生でした。ここで英語授業で聖書を学び始めた。1888年14才で神戸から来たランバス宣教師から洗礼をうけた。3か月後、教会としてこの講義所が教会として発足する。ウエンライト牧師の家へ寄宿し、英語と聖書と欧米のマナーなど学びました。
信仰の道を大分教会の発足の年に大分から始めた久留島武彦を学ぶために玖珠へ行く私たちです。

玖珠インターを降ります。周囲の山々が紅葉しています。大分はまだ紅葉は殆どみられません、やはり山がちの玖珠は寒いのかと思います。 
久留島武彦記念館へ来ました。この辺り、以前は大分友の会の玖珠最寄があり友の会員のお家もあって、何度か訪問させていただいたことを懐かしく思いだしました。
記念館に入ると、等身大に描かれた久留島武彦が出迎えて下さいます。手ぶりも交えて熱心に説明をして下さるガイドさんに館内を案内して頂きます。 
久留島武彦の著書・童話絵本が並んでいるコーナーです。 
子どもの頃から多彩な芸術に出会い、情緒や豊かな感受性を大切にする久留島武彦の教育観から芸術の展示をしているそうで、今は「韓国陶芸展」が開かれていました。 
 作家たちのプロフィールが掲げられています。右は失われた高麗青磁の製造技術を復活させたことで知られる海剛・柳根瀅(ヘガン・リュウクガン)さんです。
韓国の絵と共に、たくさんの青磁の壺や、井戸茶碗がたくさん並んでいてそれは見事でした。 
李朝家具とその上に置かれた青磁の大皿です。美しいです。
久留島武彦は 明治43年5月5日、東京青山に「早蕨幼稚園」を創立、「桃太郎主義」を掲げる。桃太郎が犬サルキジと助け合って鬼退治をしたように、「頼りあって助け合って共に生きていく共同共生の精神」を児童教育観とした、シンボルマークは、戌年で犬が大好きだったので「いぬはりこ」にしました。昭和20年の空襲で焼けるまで35年間続く幼稚園からは岡本太郎、細川ちか子 戸板康二 五島昇 虎屋社長の黒川光朝 ツムラ順天堂社長の津村重舎 など桃太郎精神で育ち、社会の様々な分野で活躍をする人たちを輩出した。
 
昭和20年5月20日の東京大空襲で早蕨幼稚園は焼け落ちました。そこで働いていた菅野ヒロさんはがれきの中から園児たちが使っていたいぬはりこの絵の描かれた湯飲みを見つけ出して後年、玖珠町へ寄贈されたとか。小さい児童にも本物を使わせたいとの思いから生まれた湯飲みです。 

右は、明治41年34才の久留島武彦は日本初の世界一周観光旅行に通訳として乗船、世界を見る。
日本初口演童話会を開催し、日本全国で童話を語り聞かせた口演童話活動を本格的に開始、訪ねた幼稚園・小学校は6,000を超えた。またデンマークで開かれた第二回世界ジャンボリーに参加し、アンデルセンの生家やお墓が粗末な扱いだったことを嘆いてもっと大切にと解いたことから「日本のアンデルセン」と呼ばれるようになった。など、活動の下にはいつもキリスト教の教えがあったように思う。
 休憩です。田中さんと一緒にオミジャ茶を頂きました。韓国の飲み物で甘酸っぱくておいしかったです。お菓子はやはり韓国で有名な薬菓、ホッとする時間でした。
記念館の前で全員で記念写真を写していただく、そして、 大きな童話の碑の立っている三島公園でお弁当を頂く。
関ヶ原の戦いで瀬戸内海の村上水軍で有名な来島藩14000石は、西軍に属し負ける。
しかし、森藩14000石で存続を認められる。ここはお城に代わるお屋敷などがあった所で立派なお庭が今も見られる。
 やがて藩名を久留島に改め、第10代森藩主道明の弟の長男として生まれたのが久留島武彦です。
友の会に久留島さんという方がいらっしゃいました。とても上品な方でしたが、久留島家の末裔にあたられる方でした。

庭園の広場にシートを敷いて、お弁当を頂きました。
 
食後に久留島武彦のお墓のある安楽寺まで歩きました。大きなイチョウの木が黄葉していました。私たちの乗ってきた観光バスが停車しています。 
14才の時に大分教会で洗礼を受けたという久留島武彦のお墓が何故お寺に?と思いますが、玖珠郡森町のお殿様の家に生まれた久留島武彦がキリスト教ということは当時の社会としてはとても摩擦の多いことでした。関西学院で学んでいた時、17才で父の通寛が死去した際に宗家の指示で海軍予備学校に入学させられ1年で退学また関西学院に戻る、しかし27才の時に母が亡くなり、大分教会へ除籍の申し出があり、受理されたということです。理由はわかりませんがまだまだ様々、難しい武家制度なども残っていた時代と言えます。しかし、久留島自身は、生涯キリスト教と決別したのでは無いと思われます。(参考資料:当日の大分教会研修パンフレット)
安楽寺に置かれているお墓です。「私が死んだらご先祖が葬られ 生まれ育った故郷の岩扇山が眺められる寺内の一隅に眠りたい」との言葉の通りに、はじめ横浜の総持寺にあったお墓は平成28年にこちらに移されました、大好きだった”いぬはりこの石像”も移され、守り神として今も両側に立っています。
お参りをした後、バスに戻ります。イチョウの落ち葉を母子が楽しそうに拾っています。 
バスの窓から青い空と白い雲、紅葉の木、黄葉の木、まだ緑の木、と本当に美しい玖珠の森町です。 
  大分教会の日下部牧師がお父様がこちらで牧師をされていた関係で幼いころを過ごされたという玖珠教会を訪問しました。宮崎牧師ご夫妻が笑顔で迎えて下さった、こじんまりとした美しい教会、化粧直しが二日前に終わったばかりと言われました。聖堂でお話を伺うことが出来ました。
若い時代に玖珠教会に5年ほど在籍をしていたと言われる大分教会員が玖珠教会時の思い出なども交えて、沿革を話してくださる。大友宗麟の時代に玖珠での布教が始まり、1985年には1000人ほどの信者がいた。その後、大正2年に布教が再開された。1969年、ここに教会が設立されて今に至っています。
その後、席を付属の幼稚園に移して、茶菓の接待に預かり短い時間にも拘わらず、あたたかい交わりの時となりました。  
 予定の時間をオーバーしての帰途となりました。疲れたので少し眠ろうかしら?などと言ってましたが、結局は田中さんとお話をしているうちに、別府のAPUや別府湾、大分の製鉄所などが見えてまもなく、大分教会へ帰り着きました。

一日、本当に楽しい有意義な時間をありがとうございました。