2018年3月28日:豊後国分寺遺跡公園でお花見
大分のこの辺りの桜も満開になりました。今日は夫と二人でブラブラと歩いてお花見に行きます。途中の大分川の工事も終わり、また長閑な川の風景です。

鴨がたくさん群れて遊んでいます。マウスをあててみて下さい。 
大雨などの被害が出ないようにと、川幅を整え広くしたそうです。とても好きな景色です。 
大分川の源流は由布岳にあります。この川の向こうには由布岳がうっすらと見えています。 
今日の目的地は豊後国分寺遺跡公園です。旧道を歩いて行きます。菜の花が綺麗に咲いています。昔はこの狭い道路をバスが通っていました。 軒すれすれに走るバスにびっくりしながら乗っていたものです。
道端のお地蔵様です。後ろの家は新しい家のようですが、お地蔵さまはかなり昔からここにあったのではないでしょうか。大事にされているようです。 
 その近くにはバス停がありました。ここは「国分」というバス停です。国分寺の国分でしょうか。この辺りから道を曲がって行くと国分寺遺跡に着きます。
この辺りの田んぼには麦がよく植えられています。もうこんなに穂が出ています。麦の緑は美しいですね。麦畑を見ると、聖書の「毒麦のたとえ」を思い出して、黒い穂を探してしまいますが、最近は見たことがありません。昔はよくありましたけどね。 
国分寺遺跡公園に着きました。着いてすぐ、真っ黄色の連翹の茂みが目に飛び込んで来ました。太陽を受けて輝いていました。 
 ここに昔、豊後国分寺というお寺が建っていたそうです。この広大な広場は講堂が建っていた場所だとか。大きな屋根は歴史資料館です。そして、たくさんの桜が見事に咲いています。まるでピンクの雲のようです。
ここは食堂があった所だそうです。柱があった場所には医師が置かれています。発掘した時にはこの地中に柱が幾つか残っていたそうです。 
 食堂遺構の様子が描かれたタイルが案内板として置かれています。発見された柱穴から正面21.3m(7間)奥行12m(4間)の掘立柱建物があったことが分かりました。と書かれています。
右上は食堂跡の調査状況の写真で柱穴が規則的にすらりと並んでいるのが判ります。下は食堂東側(上)と正面側(下)の復元図だそうです。ここに本当にこんな建物があって、お坊様がたくさん住まれていたのですね。
桜を見に行きました。今日は蒼い空が見事です。桜の花も満開になったばかりのピンクの濃いしっかりとしたお花、本当に美しいです。 
桜がとっても美しいのに、他には誰も居ない勿体ないような独り占め?二人占め?の桜です。
 近付いてちょっと面白く写してみました。この写真を使って何枚かカードを作りました。真ん中の空に、お祝の言葉を書いて送りました。
この真っ直ぐな石畳の路は、昔の回廊跡です。天平13年、西暦741年、聖武天皇の発願で建てられた豊後国分寺、今から 1300年近く前に出来た回廊の跡を歩いている私、目をつむると、鮮やかな色の衣を着た人たちが歩いているような気がします。
広々とした芝生の広場を抜けると、木々が茂った所になります。そこにはお堂が建っていて、中には黄金の仏様が鎮座されています。 
天平13年(741年)に鎮護国家を願った聖武天皇の詔勅により全国64国の国毎に建てられた中の一つである豊後国分寺の跡に建てられたお御堂と野仏たちの姿が何とも素晴らしいです。
詔勅では丈六の釈迦如来像と脇侍、金堂、講堂、食堂そして60mを越える七重塔が建ち並ぶ壮大な建物だったそうですが、今は残っていません。
野仏様のようでとても穏やかなお顔、菜の花が活けられています。 
 たくさんの椿の花が散り敷いています。見上げると大きな椿の木が空を覆っていました。
羅漢様がたくさん置かれていました。私が故郷の田舎で見た羅漢様はもっと、貧しい姿でした。ここの羅漢様は高僧のような立派な姿形をされています。この豊後国分寺で修業されていた方々でしょうか? 
大きなタイルの案内板に描かれていた奈良時代の国分寺の様子です。高崎山が見えていますね。そして、大分川の近くのこの地に、7重の塔がそびえたち、金堂、講堂、食堂があり、それらをつなぐ回廊があり、本当に立派なお寺だったのですね。周りには高い建物は何も無く、田園と森が広がる、都から遠く離れた豊後の国もこんなに栄えていたのかと思うと、不思議な気がします。今、私たちは素晴らしい所に住んでいるのですね。